寛正の乱

538 ~ 539 / 706ページ
 【狩谷氏の不法】寛正五年(一四六四)遠江の今川氏の一族で、了俊の子孫の堀越治部少輔範将が死亡して、その所領の堀越・河井・湊・中村などが欠所になった。このばあい本家の義忠の支配になるのがふつうである。しかし伊豆狩野の一族だという狩野宮内少輔が遠江に在国しており、彼は幕府に対しこれを料所にして、その代官にしてくれるよう願い、反今川派の援助により、翌六年七月二十六日認められた。
 宮内少輔は伊豆の狩野介の一類だというが、事実は遠江の地侍(じざむらい)かもしれない。(応永二十年に南禅寺領初倉荘で乱妨した七郎右衛門尉がいる『南禅寺文書』)。斯波氏の部下で郡代の狩野加賀守は、同名であるため協力していたが、加賀守の死後に宮内少輔は加賀守の子次郎を生害させ、その家督となり遠江国で威をふるう。
 宮内少輔には今川氏の後援があった。ついに守護代職も甲斐氏から宮内少輔に移ったのであろう。
 
 【河勾荘 巨海氏と結ぶ】寛正六年(一四六五)に京都の相国寺普広院領遠江河勾荘(当市河輪町)と普広院(未詳)領懸川荘の請所(うけしょ)(年貢の納入を請負う)を勤める吉良氏の部下巨海(おおみ)新左衛門尉は宮内少輔と結び、年貢を納入しない。【今川義忠の進攻】そこで幕府は新左衛門尉の両方の請所を取り上げ、今川義忠に給与した。七月二十六日に幕府が宮内少輔に与えた処置に対する義忠の強硬な巻き返しであろう。新左衛門尉は、懸川荘に城を構築し、府中の宮内少輔とともに義忠の強制執行を防ぐことになる。義忠は横地・勝間田らを従えて八月から府中を攻め、十一月二十日遂に宮内少輔を殺した(以上『親元日記』『宗長手記』『今川記』、後藤秀穂「遠江の史蹟研究」『歴史地理』第十三巻第六号)。新左衛門尉は降伏したのであろう。文明五年(一四七三)十一月二十四日将軍義政は、今川義忠に「普広院領遠江国懸革庄代官職」を支給した(『今川家古文章写』)。