義政の政治

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 【応仁の乱の口火】享徳(きょうとく)元年(一四五二)から十二年のあいだ、細川勝元が管領であった。将軍義政は政務を忘れて遊びくらし、夫人日野富子をはじめ側室・近臣らが政治に介入した。義政は毎年のようにおこる徳政一揆に対しても効果的な対策を考えず、分一(ぶいち)徳政によって幕府の収入をはかるようになった。この情勢の中で、三管領家のうち畠山・細川が交代で管領になっていた。寛正五年(一四六四)九月、細川勝元にかわり、畠山政長が管領になる。しかし、細川勝元は山名持豊(やまなもちとよ)(宗全)とむすび勢力をえた。また畠山氏は内部分裂して勢力が衰える。持国の養子政長と実子義就とは争い、これが応仁(おうにん)の乱の直接の口火をきることになった。