細川勝元とむすんでいた山名持豊がはなれて、畠山・斯波の家督争いにも対立者となる。しかも寛正六年(一四六五)、義政に実子義尚(よしひさ)が生まれ、将軍の継嗣にも養子の義視(よしみ)と義尚の母日野富子は対抗する。義視がた勝元、富子がた持豊の両後見人の争いは、細川・山名の対立を激化させた。文正(ぶんしょう)元年(一四六六)八月幕府は、畠山義就を討伐させるが、その十二月に将軍義政は、山名持豊の要請で義就を赦免した。義就は翌応仁元年正月に謁見している。そして畠山政長は罷免され、斯波義廉が管領になった・十五日持豊は勝元が政長を助けているとして、幕府に勝元を問責するように実力でもとめ、同時に義視を幕府に移らせた。
足利義政像(東京国立博物館蔵)