戦乱遠江に波及

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 【東軍 細川方義敏 西軍 山名方義廉】前管領(かんれい)畠山政長は持豊派の畠山義就に決戦をいどみ、応仁の乱がはじまる。勝元は地方で反攻をはじめている。斯波義廉の領国越前・尾張・遠江のほか、伊勢(三重県)・播磨(兵庫県)でも両派の戦いがはじまった。五月ごろには、京都に勝元がた畠山政長・斯波義敏ら二十四か国で十六万、持豊がた斯波義廉ら二十か国九万、あわせて二十五万の兵士が集まった。勝元は持豊派のすきをうかがい、将軍の室町邸をうばい、義政から軍旗をもらった。勝元は京都の東の室町邸、持豊は京都の西南部に陣取る。細川がたを東軍、持豊がたを西軍とよんだ。五月二十六日に戦いがはじまった。東軍は天皇・上皇と将軍をむかえ、これに対し西軍は義視をかつぎだして将軍とよんでいる。