足軽の活躍

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 応仁二年に両軍の動きがにぶくなると、足軽(あしがる)が活躍してくる。この雇(やと)い兵は牢人(ろうにん)ものか、京都近郊の荘園の管理人が騎馬で、有力農民は足軽、農民は人夫、という組織であったろう。
 文明(ぶんめい)五年(一四七三)三月に持豊、五月には勝元が死んだ。そして九年十一月にはほとんどの守護が帰国し、京都を中心とした応仁の乱はおさまった。