康正元年(一四五五)は旱魃であった。しかも鎌倉御所の足利成氏(しげうじ)征伐のため幕府の命令をうけた守護から蒲御厨に対しても野伏(のぶし)(補助兵)・兵粮(ひょうろう)・関東夫(かんとうふ)(関東まで運送する人夫)を徴発された。【引馬の土倉】公文は急用のため引馬(ひくま)の土倉に財物を入質した。そして作物の種子や自分たちの食料である保有米すらも入質している。ついに蒲西方の蒲検校をはじめ、蒜田・河井・西須賀などの名主を中心とし、引馬の農民と連合して引馬の土倉を襲撃し焼き払った。【大河内氏】引馬の領主大河内氏(浜松荘領家吉良氏の代官)は、吉良氏を通じ遠江守護代甲斐氏に張本人の処断をもとめた。一揆の首謀者は国人で、蒲の代官政所の石田義堅を味方につけ、大河内氏の勢力を不快に思う守護代を説得して勝訴となった(以上、菊池武雄「戦国大名の権力構造」『歴史学研究』一六六号)。