蒲御厨

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 【地頭職 東大寺】蒲御厨 応永十七年(一四一〇)将軍義持は東大寺大勧進惣深に同寺塔婆料所の蒲御厨地頭職を返付している(『東南院文書』)。のち東大寺油倉の支配にはいる。東大寺は応永二十五年(一四一八)に直接管理するため使者(代官)を派遣し、用水管理権を回収するなどして、領家の伊勢皇大神宮側の代表者蒲氏の支配権を弱め、名主をそれぞれの名の公文職(くもんしき)とし、代官がこの公文をおさえて支配することになった。
 応永三十年十一月に、東大寺の衆徒は蒲御厨において不法行為があったと評定している(『東大寺文書』)。それは百姓が「伊勢籠米反銭」の配符をうけたので、理由を問答すると、国方の大谷入道は守護使を入れて、百姓の財産を奪取したという。恐らく大谷入道が敗訴になったであろう。

応島久重遠江国蒲御厨代官職請文(奈良 東大寺蔵)

 【応島氏の自立運動】永享(えいきょう)二年(一四三〇)守護代甲斐氏の斡旋で、越前(福井県)・尾張(愛知県)・遠江守護斯波氏の有力な部下応島氏が越前から蒲御厨にきて、年貢請負の代官になった。そして文安元年(一四四四)に応島久重は、年貢三百五十貫文の代官職請文を呈出している。この応島氏は公文たちを部下にくみいれようとし、平百姓(ひらひゃくしょう)から直接年貢を納めさせようとするなど、これを一人前の名主として扱おうとした。この公文たちを従えて封建領主になろうとしたのであろう。公文たちは東大寺に強訴し、応島は免職になった。室町幕府と寺社の権威がまだ残っていたのである。すでに領家(本家)の皇大神宮の収得分のことはわからない。
 
 【引馬大河内氏領】やがて浜松荘領家吉良氏の代官で、引馬の領主大河内備中守の勢力が蒲御厨にも入ってくる。すなわち寛正二年(一四六一)六月大河内兵庫助真家と磯島藤衛門俊家を蒲御厨代官職にした。寛正六年十二月には、五年分の蒲御厨西方の年貢百七十五貫十四文が代官大河内備中入道道光から東大寺油倉に送られた。そして文明元年(一四六九)六月蒲東西の年貢五十貫文が送られる。まもなくこの地区は大河内氏らの領土となった。今川氏の遠江国の占領に最後まで抵抗した同氏の拠点である。
 
 【松井氏領】松井宗信は、今川義元から蒲東方飯田・大塚の二村を与えられ、鶴見・長田両郷の今川氏蔵入地(くらいりち)(直轄領)の代官になっている(『蠧簡集残篇』)。