【聖護院領】河勾荘 享徳二年(一四五三)九月、幕府は東大寺雑掌に対し、聖護院(京都市左京区聖護院中町)門跡領河勾荘(その権利内容は未詳)の百姓らが代官をあなどり、他出したり逃散(ちょうさん)したから、蒲御厨の地下人に命令しその河勾荘の百姓らの現住地と人名を調べて報告せよと指令した(『岡谷惣介氏所蔵文書』『東大寺文書』)。隣接する蒲御厨に逃散した者が多かったのであろう。【普広院領】また寛正六年(一四六五)ごろ河勾荘は相国寺普広院領だとある(『親元日記』『宗長手記』『今川記』)。聖護院と相国寺領との権利関係はわからない。いずれにしても応仁の乱からまもなく姿を消したであろう。【太田氏 今川領】河勾荘の太田又太郎は、今川氏の有力部将松井宗信の同心になっている(『蠧簡集残篇』)。