村櫛荘

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 【領家氏 村櫛氏 今川領 大沢氏】村櫛荘 玉子郷と領家方がある。領家という豪族もいた。室町時代のはじめに村櫛荘本家年貢を押領したのは、和地・伊左地を吉良氏の代官、西郷分を肥田兵庫允、領家方半済分を代官の安西中務丞・高橋太郎左衛門尉・後藤次郎左衛門尉・深谷某であり、さらに村櫛九郎があり、なお惣代官といい押領したのは柴田の代人少輔房である(『東寺百合文書』さ四十)。いずれもこの地方の小土豪たちである。永正(えいしょう)元年(一五〇四)八月、今川氏の食客伊勢宗瑞(いせそうずい)は、守護代の命令をうけて、玉子郷に対し、年貢などを領家氏に納めよと指令した。六月一日(年号不詳)守護今川氏親は、領家氏が部下になることを約したので、領家方と尾奈郷を給与した。すでに村櫛荘は解体し、その土地は今川氏の領土になっている。天文(てんぶん)二年(一五三三)十二月、今川氏輝は、村櫛に在城している大沢氏に浜名湖の運輸についての税を免除した。天文四年五月、氏輝は村櫛荘領家方と尾奈郷の棟別銭を免除し、警戒をきびしくさせる。天文十三年二月、今川義元は大沢治部少輔に対し、検地の増分を与え、佐田(堀江)城の守備などを命じた(『大沢文書』)。
 
 【和田氏】今川氏の将松井宗信の同心和田八郎次郎・同弥六郎は、村櫛荘和田の土豪である(『蠧簡集残篇』)。