商業

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 【定期市】定期市が普及したので、商業は活気をおびてきた。永享(えいきょう)五年(一四三三)のころには、安芸(あき)(広島県)沼田荘(ぬまたのしょう)でも沼田川の下流の右岸に三百の在家(ざいけ)をもつ本市(ほんいち)があり、その左岸の小坂郷にも百五十ほどの在家をもつ新市があった。
 【市場と領主】市場は所在地の領主がひらく。文明(ぶんめい)十八年(一四八六)に、大和の豪族越智(おち)氏は市津料(いちつりょう)をとるため、八木(やぎ)(橿原市八木町)に数百間(けん)(軒)の家屋を建て毎日市を開いた。領主にとって、市場税が重要な財源になってきたからである。
 
 市場は特定の商品を売る販売座席をもつように進んでいる。荘園領主に隷属し奉仕していた商工業者は独立しはじめる。しかし地方土豪の家来(けらい)になるものが多かった。