紀行文

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 この時代の紀行文をあげると、つぎのとおりである。
 
 【都のつと 富士紀行 正広日記】観応(一三五〇-一三五一)のころ宗久は、東海道をくだって、富士の美にうたれ、鎌倉を訪ね、さらに白川の関から松嶋にまで遊び(『都のつと』)、室町将軍義教は鎌倉御所持氏を威圧するため、永享四年(一四三二)九月、富士山見物にたくして駿河に下った。このときの行程は、橋本・舞坂・引馬・府中(『富士紀行』『覧富士記』『富士御覧日記』)である。また文明五年(一四七三)八月に、歌僧正広は駿河に下り、二か月ほど滞在し、帰途遠江で諸所を訪れている(『正広日記』)。

遠州灘より今切・浜名湖を望む


掛塚港跡(磐田郡竜洋町)


普済寺(大正時代)(浜松市広沢町)