【三方原 普済寺 引間市 天竜川 懸塚】文明十七年(一四八五)九月、万里集九は関東に下る途中で、黍里(浜名郡湖西町)から浜名湖をわたり、三方原を歩き、十五日引馬に宿した。その情況を万里の詩文集『梅花無尽蔵』二(東大史料編纂所所蔵の貴重本による)でみよう。
箕形原始望富士、同日(九月十四日)
天辺万仭似看形、高叫奇々卸笠行、猶秘士峯真面目、乱雲迷処未分明、未刻歩遠江之箕形原、始望富士峯於彷彿之間、絶叫擲笠、
普済精舎、又同日申刻就遠之引間、々々有浜松庄、又有洞下普済寺、余此日深泥中喫𨈀、
山前寺古莫鯨嘶、我欲行窺路隔谿、三尺深泥喫𨈀処、不扶腰脚喝頑奚、
引間待便風、十五日信宿引間、待便風、盖其東二里有海、今日石河携一樽并二股栗、遠名産也、
引間市富屋千区、欲待便船浮海隅、石氏一樽并二股、旅中風味嚼醍醐、
渡天竜河就懸塚、十六日午時踏天竜之風波、就懸塚、借舟師之家、先喫小焦餅、
急流近海棹知潮、先聴一声婆餅焦、明夜定看小河月、借舟五貫大如橋、