正長(しょうちょう)元年(一四二八)は、凶作のうえに悪病がひろがった。八月に近江(おうみ)(滋賀県)の農民・地侍(じざむらい)たちは「徳政(とくせい)」をもとめてさわぎだした。土民一揆(どみんいっき)である。すると京都周辺の土民がかってに徳政だといい、債権者に証文をださせた。十一月には、京都市内に土一揆(つちいっき)がおこり、在京守護の配下も加わっていた。奈良でも馬借(ばしゃく)という交通労務者の機動部隊を先頭にして、土一揆が土倉(どそう)をおそい、興福寺はついに徳政を実施する。土民一揆は各地に飛び火して、その地方に徳政令がだされた。幕府は全国的な徳政令を公布しないですみ、ようやく体面をたもつことができた。