文明の国一揆

563 ~ 563 / 706ページ
 【農民の力】応仁・文明の乱で、京都での休戦は成立したが、大乱の口火となった両畠山氏の戦いは、南山城(京都府南部)・大和(奈良県)にもちこまれてきた。そのためこの地方の豪族たちの争いが、いよいよはげしくなる。文明(ぶんめい)十七年(一四八五)十二月に南山城では、六十歳から十五、六歳までの農民たちがすべて集まり、はえぬきの土豪とともに、両畠山軍の撤退、横領した荘園を旧領主に返すこと、国内の関所の撤廃を強く要求した。この国一揆(くにいっき)は幕府の権力が弱体化しているうえに、細川政元や畠山政長らの工作などの条件にささえられていた。
 
 【農民の願い】十八年二月、土豪たちは宇治の平等院に集会をひらき、新しい法律を定めた。三十六人の代表が合議して政治を運営することにした。これが山城一揆である。しかしこれをささえていた政治的な条件が変化し、一揆のうちには荘園を自分のものにしようとする小勢力があり、このむすびつきが破られ、この一揆は八年ののち解散した。それにしても戦いに反対し、みずからの生活を守ろうとする農民の願いがこめられていた。