臨済宗の教線は、京都と鎌倉の中間部でたちきられた。【真言宗】これは三河西南部で勝鬘(しょうまん)寺(岡崎市針崎町)・上宮(じょうぐう)寺(岡崎市矢作町)・本証寺(碧海郡桜井町野寺)など、真宗の三河三か寺が新興勢力をもって栄え、その東部には、真言宗鳳来寺(南設楽郡鳳来町)とか、遠江で岩水寺(浜北市根堅)・尊永寺(袋井市豊沢)などを中心とした旧宗教が伊豆走湯山般若院(熱海市)などと連絡して、活動していたからである。しかも臨済宗には、後援する有力者が遠江地方にはなかった。【普済寺】このために方広寺派の勢力ものびず、応永(一三九四-一四二七)の中ごろから遠江浜松荘におこった普済寺、遠州中部の橘谷の大洞院(だいとういん)(周智郡森町)や崇信寺(周智郡森町)を中心とした曹洞宗に圧倒されるのである。なお、浜松荘には方広寺派の大信道及の開いた洞雲寺(当市神ケ谷町)、的伝一著(てきでんいっちゃく)の開いた大通院(当市新橋町)などがある。
【洞巌 直伝】曹洞宗の教線は、豊後(大分県)泉福寺から洞巌玄鑑(どうがんげんかん)・直伝玄賢(じきでんげんけん)が遠江にきて、天竜河畔に雲巌寺(いま竜泉寺、浜北市根堅)・栄林寺(天竜市二俣町)などをはじめ、また大寿宗彭(たいじゅそうほう)は、相良荘に大興寺(榛原郡相良町)を開いた。
中世末期主要寺院地図