大洞院派

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 【恕仲】また恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)(一三六九-一四三七)は、応永八年(一四〇一)遠江飯田の領主山内氏のたのみで、崇信寺(周智郡森町)を開いた。しかし教えをこうものがあまり多いため、これをさけて橘谷にゆく。人びとはここにも尋ねてくるため、ついに応永十八年に大洞院(周智郡森町)をつくり、のち遠江国中に三千あまりの末寺を分出し、教えをひろめることになった。【可睡斎】ことに大路一遵(たいろいちじゅん)の可睡斎(袋井市)一派は、永正(えいしょう)年代(一五〇四-一五二〇)から、土豪の久野宗隆、のち浜松城主徳川家康の外護(げご)をうけて繁栄する。【僧録司】天正十一年(一五八三)十一月、家康は可睡斎を三河・遠江・駿河三国の僧録司とした。これは室町幕府が相国寺鹿苑院に置いたのに倣ったもので、分国内の曹洞宗教団の統一をはかった政策である。

可睡斎(袋井市久能)