猿楽能

573 ~ 574 / 706ページ
 謡曲(うたい)につれて舞う能楽は、猿楽能(さるがくのう)といわれた。それは奈良時代の散楽(さんがく)からおこり、平安時代には宮廷の雅楽寮(うたりょう)の楽(がく)人が伝えていた。【地方巡業】楽人のうちには民間人となり、地方を巡業するものもあった。農民たちは、この芸能者をいやしいもののように思いこんでしまった。彼らは寺院や神社の行事にも演技している。たとえば、奈良の興福寺の猿楽師には、金春(こんぱる)・金剛(こんごう)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしよう)の四座があった。
 
 【観阿弥】観阿弥は、いなかの武士や農民のこのみ、大和では田楽(でんがく)の能(のう)や延年(えんねん)の能(のう)などの長所をとりいれ、演技を高めていった。彼とその子藤若丸(のちの世阿弥)は義満の後援をえることができた。観阿弥はいよいよ芸にみがきをかけたが、その芸能の基盤である地方武士や農民を忘れなかった。至徳(しとく)元年(一三八四)五月、駿河(富士宮市)浅間(せんげん)神社の前で演じて、ここで死んだ。【世阿弥】観世三郎元清は幕府の同朋衆(どうほうしゅう)に加えられ、世阿弥(ぜあみ)という。世阿弥は能(のう)について『花伝書(かでんしょ)』を書いた。新しい芸能、能楽の芸術論として最初の著書である。
 応永(おうえい)十五年(一四〇八)の北山第行幸に、世阿弥は後小松(ごこまつ)天皇の前で演技した。卑しくみられていた猿楽能もここに社会的な地位をえることができた。

観世能 洛中洛外図屏風 部分(東京 町田満次郎氏蔵)