【細川高国】前将軍義尹は大内義興とともに京都に向かい、途中で高国に迎えられ、十五年ぶりで将軍の座にもどる。高国は細川氏の本家をつぎ、管領となった。永正五年(一五〇八)である。
義尹は永正八年に前将軍義澄らを撃破してのち義稙と改名する。永正十五年(一五一八)八月、大内義興は京都滞在があまり長期にわたるため帰国した。すると十六年十一月、澄元は三好之長らと、阿波からまた京都にせめこんだ。ついに澄元は阿波に逃亡し、まもなく死亡した。義澄は近江国の小豪族九里(くのり)氏(近江八幡市岡山城)のところに逃れ、ここで急死する。
大永(たいえい)元年(一五二一)三月、高国の横暴にたまりかねた義稙は、淡路(兵庫県)をへて阿波の撫養に移り、のちここで死亡する。
【将軍義晴】播磨・備前・美作守護赤松義村に養育されている義澄の長子亀王丸は、細川高国に迎えられ、義晴と改め十二月将軍になる。
【細川晴元】京都にしばらく平和がつづく。しかし大永六年(一五二六)に高国の側近で勢力争いがおこる。七年二月、三好元長(之長の子)らは、もと将軍義澄の次男義維(よしつな)と細川澄元の子晴元をつれて、阿波から堺(堺市)に進んできた。
ここで将軍義晴と弟義維が将軍の座の防衛と奪取をめぐり争うことになった。享禄四年(一五三一)六月高国は、細川晴元と摂津中島(大阪市内)で戦い殺された。晴元の勢力が安定すると部下のあいだに勢力争いがおこり、晴元は援助を本願寺門跡の光教にもとめた。
【一向一揆】天文元年(一五三二)六月に一向一揆がおこり、晴元の老臣三好元長も殺される。一揆は八月一日晴元を包囲したので、晴元は日蓮宗にたのんだ。そして二十四日、近江守護六角定頼・晴元の兵・叡山の僧兵・法華宗一揆などは、山城山科(京都市東山区)の本願寺を焼きはらう。
翌二年六月、晴元はついに証如光教と講和し、娘を証如の子顕如光佐に嫁入らすことを約束した。同五年正月、山城山科に本願寺道場が再興され、八月将軍義晴が証如の罪をゆるすと、近畿地方の一向一揆はしだいにしずまった。
ことにその七月、六角定頼と叡山の僧兵が法華宗門徒と戦い、京都の二十一か寺を焼きはらい、追放してのち、この地方の宗教一揆は下火になった。
細川氏略系