【将軍義栄】阿波国にいた足利義維(よしつな)は、子の義栄(よしひで)を将軍職につけるように、と補佐の篠原長房に命令している。松永久秀や三好三人衆は、義輝の英明なことをいみはばかっていたので、両者は連絡して義輝を暗殺し、義栄をたてることになった。永禄八年(一五六五)五月、久秀の子久通と三人衆は幕府を急襲し、義輝は自殺した。
【将軍義秋】義輝の弟で、奈良興福寺一乗院(いちじょういん)の門跡覚慶は幽閉されたが、細川藤孝らのはからいで脱出し、近江(滋賀県)甲賀(こうか)郡の和田惟政をたより、還俗(げんぞく)して義秋といい、諸国に味方を募る。のち若狭(福井県)をへて越前(福井県)にゆき、朝倉義景にたよる。
足利義栄は篠原長房らとともに、阿波から摂津富田(とんだ)(高槻市)の普門寺にきている。