戦国大名は、封建制がつづいている戦国時代の大名である。農業や農村をはなれて、封建制をつづけることはできない。戦国大名・家臣・人民の食料から軍隊の供給源も農村である。農村にすみついている有力者の国人は、「惣国」とか「惣中」といい、外部からの武力や勢力の侵入に反対する組織をつくり、また一揆による農民の反抗をおさえ、自分たちに有利な方向に利用した。そして新しい戦国大名の給人(きゅうにん)(知行人)となった地侍(じざむらい)(国人)たちの指導のもとに、惣から進んだ惣村の組織はその自治性をうしない、近世的な村落として編成されていく。延徳(えんとく)元年(一四八九)・永正(えいしょう)十七年(一五二〇)・弘治(こうじ)二年(一五五六)などにさだめられた近江国今堀(いまほり)(滋賀県八日市市)惣(そう)の地下掟(じげおきて)では、田地売買の禁止・制限とか、自由な奉公の禁止、離村の制限などが強調されている。そこからは江戸時代の村法(そんぽう)や五人組掟と共通した性格をみいだすことができる。