義忠の遠江経略

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 【瀬名氏の引馬進駐】義忠は文明の二年か三年に、遠江のおそらくは府中に出陣し、十二月に帰国する。しかし瀬名貞延は千余騎でさらに引馬に進み、三河・尾張方面を威圧しようとした。その翌年、帰国の途中小夜の山口で、横地・勝間田らを中心とした遠州勢の攻撃をうけ、貞延や堀越氏は討死する。小夜の山口は、遠江から小夜の中山にかかる入口で(いまは掛川市)横地・勝間田らの根拠地である(『今川家譜』『今川記』)。
 
 【遠江土豪の反抗】文明八年(一四七六)二月、遠江の横地四郎兵衛・勝間田修理亮は西軍の守護斯波義廉に味方し、「狩野の故館を城郭として」これにより義忠に反抗した。【義忠追討】義忠は久野佐渡守ら五百余騎を二手にわけ、横地・勝間田の城を囲み、七日間で攻略し、両人の首級をえた(『今川記』)。ここに源平時代から東遠に不動の地位を確保した横地・勝間田両氏は滅亡した。
 
 【義忠の戦死】横地・勝間田両氏を滅した義忠は、帰途夜中に南路を相良にでようとして、小笠郡小笠町高橋の塩貝坂で敵の残党に夜襲され、流矢にあたり死亡した(岩田孝友『遠江史蹟瑣談』)。四十一歳。義忠は勇猛で弓馬の道に秀れ、また連歌をたしなみ宗祗に学んだという。
 
 【飯尾長連の戦死】室町幕府の奉行人飯尾氏の一族飯尾長連は、今川氏に招かれていたが、この戦いで死んでいる(以上『和漢合符』『妙法寺記』『今川記』『宗長手記』『今川家略記』後藤秀穂『今川義忠戦死考』)。
 
 【義忠戦死の影響】義忠が小夜の中山の険をさけ、かえって敵の根拠地に近よったのは油断であった。義忠の死は今川氏の一族・家人の争いをひきおこし、また堀越公方や上杉家の干渉を招くことになった。小夜の山口の戦いで、斯波氏は遠州に勢力をもりかえした。義忠は遠州経略にのりだしたが、今川氏は人の和をかき、遂に戦死という凶事までひきおこした。

今川義忠墓(小笠郡小笠町 正林寺)