遠江の戦乱の二

599 ~ 600 / 706ページ
 【大河内貞綱の引馬挙兵】永正八年(一五一一)十月に、氏親は尾張守護斯波義達と遠江刑部などで戦っている(『美作伊達文書』『美作伊達系図』『飯尾文書』)。そして九年閏四月になると、大河内備中守貞綱は信濃・三河・尾張の兵を味方にし(「天野文書」『遠江国風土記伝』所収)、義達の援助で引馬城で挙兵し、堀江城を攻撃したが失敗する。氏親の将朝比奈泰凞はこれを攻めた。十年三月七日(『異本塔寺長帳』)貞綱は降伏し、生命を助けられる。【村櫛の堀江氏】このころ遠江村櫛(当市村櫛町)の堀江下野守も黒山(堀江)城にたてこもったが、泰凞に攻められ降参している。【新津城】義達・井伊衆・「引間衆」は、村櫛の新津城に攻撃をかけたが、刑部から七十艘の舟をだし、新津城をたすけた。十二月に泰凞が死亡し、子泰能はまだ幼少である(『宗長手記』『美作伊達文書』「天野文書」『遠江国風土記伝』所収『今川記』『朝比奈家系』『美作伊達系図』)。

新津城跡(浜松市村櫛町)

 【氏親出陣 飯尾賢連 大菩薩山】永正十一年(一五一四)、貞綱はまた兵をあげた。氏親は室町幕府奉行人飯尾氏の一族の飯尾賢連を京都から招いていたが、この賢連とともに笠井荘(当市笠井町)楞厳(りょうごん)寺(いまは廃寺)に進み、諸軍は大菩薩山に陣した(『宗長手記』)。福島範為が十月一日付で中安氏に与えた書状によると(『大沢文書』)「引間に進撃しようとする、けれども雨天のため天竜川を渡れず延引している。また村櫛には、兵粮を調達させるように手配せよ」とある。永正十一年の作戦であろう。

大菩薩山城跡(浜松市有玉西町)

 【三嶽城の井伊氏】斯波義達は尾張の兵をひきい、貞綱に応じ、井伊直盛とともに引佐郡の三嶽城に篭城した。朝比奈泰以は、これを攻略する。このとき甲斐(山梨県)の武田氏に内乱がおこった。氏親は撤兵して、今川氏の拠点甲斐勝山城(東八代郡)に援兵を入れた。
 【氏親の甲州出兵】甲斐の守護武田信虎は、国内平定のため一族大井信達を永正十二年十月に攻めた。信達のもとめで、氏親は兵二千で援助した(以上『異本塔寺長帳』『宇津山記』『宗長手記』)。