遠江今川氏の分国となる

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 【引馬城を包囲】このために貞綱は、斯波義達・巨海(おおみ)新左衛門とともに勢力をもりかえし、引馬城により、信濃の国人もあわせて、天竜川の近くまで進んだ。氏親が懸川城に進むと、信虎は永正十四年に、勝山城を囲み、今川氏の援軍と本国とを遮断しようとする。氏親は連歌師宗長に信虎との講和をたのみ、三月に帰国した。【氏親出陣】氏親は六月、天竜川に三百余艘の船橋をかけてわたり、丘山にある敵城をかこみ、安倍金山の採抗夫をよび、井水の水源をぬき、せめたてた。【貞綱・義達の降伏 普済寺】八月十九日、貞綱・新左衛門は自殺し、義達は降参して普済寺で出家し、尾張に送還された(『宣胤卿記』『宇津山記』『宗長手記』『今川家譜』『重編応仁記』)。【宇津山城】これで遠州はまったく今川氏の分国となった。氏親は懸川城を修築して遠江の根拠地とし、浜名湖西岸の宇津山城を前衛線とした。三河・尾張の国人のうちにも、今川氏に味方するものができてきた。