大福寺領永地注文(引佐郡三ヶ日町 大福寺蔵)
【松平氏の保護】この三河木綿の商人は、天文からのちになると、進んで販路を京都方面にもとめるようになった。それは松平元信の保護によることが多い。永禄(えいろく)(一五五八-一五六九)ころになると、真綿(まわた)という言葉ができて「きわたもめん」の草花綿と区別するようになった。木綿が絹綿と同じ地位をしめたことになる。そして綿入の布子(ぬのこ)など安価で暖かい綿を国民に供給するようになった。
【木綿は軍需品】しかし木綿の需要を拡大させたのは、軍需によってであった。多数の足軽・小者(こもの)などの衣服・陣幕・旗・指物・馬衣料などの原料として莫大な綿布が必要である。しかも綿布の堅牢性と染色の単純性とは、この軍事上の要求にかなう。家康軍もこの綿布で装備されたであろう。【友野座】駿河府中(静岡市)の町の商人頭友野氏は、友野座を組織している。友野座は、駿河国の重要な都市で木綿の役銭を徴収する権利を与えられ、そのうち馬番料馬衣料)として、木綿二十五端(たん)を今川氏に上納していた。