木綿

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 【三河木綿】すでに永正(えいしょう)(一五〇四-一五二〇)のころ、日本の木綿機業の成立した基地は、平安朝(七九四-一一八〇)の昔に木綿の種子がはじめて栽培された三河国(愛知県)であった。この三河は長く中世木綿機業の中心地となっていたらしく、三河木綿と三河木綿商人は、多くの文献を残している。【遠州木綿】三河国に隣接する遠江にも綿の白い花が咲き、綿布を織る機(はた)の音がきかれるようになった。【大福寺】たとえば、引佐郡大福寺の天文(てんぶん)(一五三二-一五五四)ころの古文書(大福寺領永地注文)に「一反 木綿一巻 上田」とあって、すでに木綿の生産が行なわれている。

大福寺領永地注文(引佐郡三ヶ日町 大福寺蔵)

 【松平氏の保護】この三河木綿の商人は、天文からのちになると、進んで販路を京都方面にもとめるようになった。それは松平元信の保護によることが多い。永禄(えいろく)(一五五八-一五六九)ころになると、真綿(まわた)という言葉ができて「きわたもめん」の草花綿と区別するようになった。木綿が絹綿と同じ地位をしめたことになる。そして綿入の布子(ぬのこ)など安価で暖かい綿を国民に供給するようになった。
 
 【木綿は軍需品】しかし木綿の需要を拡大させたのは、軍需によってであった。多数の足軽・小者(こもの)などの衣服・陣幕・旗・指物・馬衣料などの原料として莫大な綿布が必要である。しかも綿布の堅牢性と染色の単純性とは、この軍事上の要求にかなう。家康軍もこの綿布で装備されたであろう。【友野座】駿河府中(静岡市)の町の商人頭友野氏は、友野座を組織している。友野座は、駿河国の重要な都市で木綿の役銭を徴収する権利を与えられ、そのうち馬番料馬衣料)として、木綿二十五端(たん)を今川氏に上納していた。