百姓前

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 戦国大名は、自然村落を支配する有力名主を権力の基盤とし、それを年貢・夫役の徴収と直(じき)納入責任者としてとらえており、また給人の被官・同心として軍役衆にくりこんだ。それは室町時代から先進地に多くみられる有力百姓の百姓請・地下請のことで、惣的な村落結合の展開を背景にしている。戦国大名の関係史料には「百姓前」という語句が散見する。複数で「百姓五人前」とか、特定の人名をあげた「五郎衛門前」とかの用例もみえる。近世の大名は、名主の家父長制(大家族を家父長が統制する)的経営から血縁分家や家内下人が分化し、自立して、成立する小農(本百姓)経営を権力基盤としている。この点のちがいが、戦国大名と近世大名を区別するもっとも重要な指標になる。
 【今川氏のばあい】戦国大名のばあい、つねに年貢を「百姓前より直に請取らるべし」とか「百姓五人前より相違なく請取るべし」「中村五郎兵衛前より請取らるべし」というように使用されている。たとえば永禄九年(一五六六)九月三日付小笠原氏興が駿河府中の商人頭松木与三左衛門にあてた田地売渡状(「矢入文書」『静岡県史料』三所収)は、今川氏真の証判があり、文言(もんごん)のうちに「従百姓前、直可被請取候」とある。
 【徳川氏のばあい】徳川氏も今川氏ら戦国大名の「百姓前」直納体制を在地支配に利用した。家康は永禄十一年に遠江に侵入すると、榛原郡のうちなどで、「百姓五人前」などを中山又七郎に保証している。また天正八年(一五八〇)四月二十五日付で、三河鳳来寺に下した家康の定書のうちにも、百姓前から直所務(じきしょむ)させて在地支配をした。後北条氏の場合も、甲斐武田氏(『石川文書』)も山城賀茂郷(『尋憲記』元亀四年二月廿五日条)でも、同じである。
 【二つの権利】百姓前は、百姓職(しき)・名主職(名職)と同義語であり、その職(しき)(権利)をもつ特定の農民をもさしている。
 戦国大名は、この百姓職(百姓前)をそのまま安堵(あんど)(保証)し、または新しく給恩として与え、それを知行権として公認・保証して、その「百姓」を家臣に編入した。知行権の対象である名主職の内容は、その給人(知行人)の知行地に対する年貢・公事そのほかすべての得分(とくぶん)支配権をふくみ、大別すると年貢収納権・農民使役権の二権利の直接行使をゆるされたことである。
 戦国大名は、これらの大小の名職所有者を家臣にするとともに、寄親・寄子制を適用して、番組による家臣団の軍事組織を整備しようとする。寄子・同心を家臣に付属させるのもこのためである。【百姓前は奇子同心クラス】「百姓前」は、在村の名主としてはもっとも有力者であり、代官的な名主でもあった。大名の軍制のうえでは寄子・同心クラスにあたる。彼らは領主化した給人とちがい、農村に密着し強固な郷村支配をしていた。大名たちは百姓前を年貢・夫役の納入責任者としてとらえ、彼らの強力な在地支配を利用し収益を完全にしようとした。従来行なわれてきた百姓請(ひゃくしょううけ)(地下請)の権利が「百姓前」にゆるされたことである。徳川氏は、関東入部ののちでも「百姓前」に預けるという方法を採用している。戦国大名は「百姓前」という在地の有力名主を給人統制にも利用した。大名の給人支配の強化を下から促進させようとする政策である(北島正元「戦国大名と百姓前」『日本歴史』一六三号。
 
 【収穫量 新開】半独立の新名主は、本年貢と加地子(かじし)(借地料)を別々に納めるのがふつうである。収穫量は山城国(京都府)の条件のいい地方で、二石(二八〇キロ)平均にあたるようである。水害などの耕地の復旧のほか、山間部や川の流域を開墾する作業も進められていた。