農民政策

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 農民に対する政策では、まず農業人口の増加をはかる。武田信玄は、遠江から分国駿河に移る農民には普請役を免除した(『増善寺文書』)。
 
 【人口確保】いろいろの理由から、農業人口の減少することは、農業政策だけでなく、年貢の未納者などのばあいは、大名がうける打撃がきびしい。年貢未納者の逃亡(逃散(ちょうさん))は、盗賊として扱った伊達氏・甲斐武田氏の例がある。戦いのばあいに逃亡するのを禁止したのは当然である。逃散させた時に、代官や給人が不法を働いたばあいには、まず代官たちが処罰される。【今川氏のばあい】今川氏は前記のように地頭が理由なく名田をとりあげることを禁止した。さらに㈠駿河泉郷の本百姓と小作が耕作しないで、他郷へ耕作にいったばあいには、追放する。㈡その百姓の家屋敷は、新百姓(新名主)に与える。本百姓は、小作が年貢を納めないで逃亡して立ち帰ってきたら捕えて報告のうえ処罰せよ、と指令している(『泉郷文書』)。【大柳村のばあい】また川勾荘大柳(おおやぎ)村(当市大柳町)の与三郎は、年貢未進で逃亡した。今川氏真は永禄四年(一五六一)に未進分を弁済すると申しでた大田彦十郎に対し、与三郎の知行した土地を知行させた(『随庵見聞録所載文書』)。
 
 【人返し】逃散した農民をもとの土地にもどすことを人返(ひとがえ)しとか還住(かんじゅう)といった。武田信玄は、遠江中村郷や白羽郷に対しても逃亡農民の召し返しを指令した(『岸文書』『白羽神社文書』)。後北条氏は還住した農民に借銭・借米を免除したことがある。
 
 【農民身分の固定】農民が移動するばあい、戦いや年貢の重いこととか、政治的な原因や、新興都市にうつるなどの理由があろう。しかし年貢未納などでなくとも、農民が自由に武士の奉公人になろうとする動きに対し、農民の身分を固定しようとする今川氏は、天文(てんぶん)五年(一五三六)これを禁止した。まして他出することはいけないと付記してある(『安養寺文書』)。農民の身分を固定しようとする早い例である。