新居の関銭

618 ~ 619 / 706ページ
 翌六年二月、今川氏は実情を調査させる。九月二日に五か村百姓に対し、指出分以外の年貢は「百姓前」が保管すること、もし百姓・小作人のうちで、それを安定に納めたりするものがあれば、在所(ざいしょ)を追放すると令している。九月九日、今川氏は安定の処分をきめた朱印状を、彼の知行地に近い宇布見郷の今川氏代官中村源左衛門に下達した。その要旨は「今年度の米銭勘定は、今川氏の勘定方が仲介して安定に納める。指出以外の増分は、山野・芝原・開墾地・浦浜・内浦・関銭・林・屋敷・寺社をふくめて今川氏の蔵入分とする。本年度の収納についても米七四八俵のうち、五〇〇俵は蔵入とし、残り二四八俵は、中村代官はじめこの一件に尽力した者に永く扶持し、また銭納一四三貫も蔵入とする。そのほか新居の関銭の額を偽って申告したので、以後は五〇貫文と一定する。この蔵入の米銭は、以後定納として収納し、国中の大風・大損亡の年には、奉行人が検査して減免する。
 右の額以外に「百姓前」が横領している分があれば言上すること、その額により代官などに扶持する。将来安定に右の蔵入分を返却してやることがあっても、代官らに扶持した米銭は永久にそのままとする。」
 さらに今川氏は同日、五か村に対しても「年貢を納める以前に借米・借銭の催促してはならない。年貢を納める以前に俵物を他所にだしてはならぬ。百姓・小作が年貢を未進したり逃散しても、召還し、譴責を加えて、年貢を納めさせる。」と令している。
 今川氏は給人(知行人)を押えるために「百姓前」を利用し、関係の代官などに恩賞を与える一方で、「百姓前」とそれに代表される知行地の農民の動向にも監視を怠っていなかった。農民側が給人(中安安定)の弾劾に成功しているから、今川氏はそれによる貢納関係の動揺を恐れたのであろう(以上『中村文書』)。