【六斎市】地方農村でも戦国時代ころには、五日ごとに月六回の六斎市(ろくさいいち)がふつうになる。この定期市と隣接の市場に二日市・三日市・四日市・五日市というように市日の協定ができる。
京都地方では、宇治(宇治市)の文明元年(一四六九)の六斎市がもっとも早い。商品交換の中心地には、親市という大きな市場ができる。ここが中心となり、正月の市祭が開かれた。年貢が米納になると、大名はあまった分を市場で販売せねばならない。そのためにも市場を統制し、市日をふやす必要がある。
【管理】市場の管理は、はじめは市場の収益をとるその所在地を知行している人であるが、のち市場商人の親方にうつる。大名は多くは城下町の商人司(しょうにんつかさ)をとおして地方の定期市をおさえる。大名は、特定市場に来往する商人を歓迎し、市場税などを免除した。かっては市場税をとるために市場を建設したのである。ことに交通路線を整備したとき、街道の要所に宿駅をつくり、人馬をおいた。【新市】ここに新宿(しんしゅく)がつくられ、新市が開かれる。このばあいに大名はこの新市をとくに優遇した。
【小売商人 問屋】商品のでまわるにつれて、京都では穀物市場・海産物市場・家畜市場などの市場ができ、ここから小売商人に配給されるようになった。特殊市場に商品を移入したのは問丸(といまる)、のちの問屋である。問屋と特殊市場が、都市の商業の中心になった。
【引馬宿】引馬宿でも早くから営業していた金融業の酒屋・土倉がある。京都や摂津平野(大阪市)などの金融業者のうちには、蓄積した資本で貿易商人になった角倉(すみのくら)・茶屋・末吉(すえよし)などがある。駿河府中(静岡市)の松木氏なども高利貸を兼業している。【見付の米屋弥九郎】遠江見付国府(磐田市)の米屋弥九郎は、新酒屋を二軒経営していたが、見付城の塀・柱などの修理をつとめるなどしたので、永禄(えいろく)八年(一五六五)今川氏から酒役を免除されている(『成瀬文書』)。