【御用職人】浜松城下では、家康が紺屋・檜物師・塗師・瓦師・仕立物師・桶師・屋根屋・鍛冶・大工・畳師・木挽などの職人に、それぞれ支配頭をおいて統制させ、頭には無税の屋敷を与え、領内の販売の独占権をみとめた。彼らは軍陣にも参加し、城や陣所の構築などにはたらいた。
【大工木挽頭】浜松の大工木挽頭の今村才兵衛は、配下の木挽百人をつれて各地に従軍し、とくに三方原の戦いで大いに働き、扶持を与えられる。城下の職人だけでなく、村の職人にも諸役を免除して奉仕させている(「浜松宿諸職記録」『浜松市史史料編二』所収『御庫本古文書纂』)。【大工職】家康は天正八年(一五八〇)三月、五郎太郎を浜松荘の大工職とし、大工を統制させた。
【豪商】摂津平野の豪商で海外貿易でも活躍した末吉勘兵衛利方は、はやくから家康領国の港に自由に出入して、商売することをゆるされ、その一族らしい平野孫八郎も天正五年二月、三河・遠江の港にきて商売することをみとめられ、船の課税を免除されている。また茶屋四郎次郎清延は天正六年九月、家康側近の酒井忠次らに対し、援助することを申し述べている(『家忠日記』)。三河土呂郷で製茶・酒造・高利貸を営業していた松平親宅(ちかいえ)は、功績によって蔵役・酒役などのすべてを免除されている。
これらの豪商は、和泉堺(大阪府堺市)などから鉄砲などの軍需品や奢侈品をはこび、徳川氏の年貢米や、東海地方の物産をつんでいったものであろう。家康は彼らを茶会によんでもてなし、戦費を献金させたこともあったにちがいない。
近世になって身分制が確立すると、豪商は大名の膝下にひれふしてしまう。