分国経済のありかた

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 【統制と保護】近江(滋賀県)の六角氏は、領内の座商人の紛争を裁決する権利と、市場の統制権をおさえた。しかし今川氏は、まず松木・友野を御用商人とし、山中氏を沼津大岡荘問屋とし、彼らのいままでの権利を認め、その機能を利用し、領内・領外の流通を統制しようとした。たとえば、永禄十年(一五六七)今川氏は駿河産の茜(あかね)(赤色染料)の移出を友野・松木らに限り許している。また領内の都市や市場に対して寺院・小領主のもつ支配権をとめて、今川氏がおさえた。分国の生産品が京都などの大都市と深い関係をもつようになり、封鎖経済だけでは、分国経済を運用できないからである。この方式は、後北条・武田・徳川などにほぼ共通した。六角氏と今川氏の商業政策は本質的にちがいはないが、地域差と時間のずれである。
 市場は、農民の生活にとっても領主の経済にとってもかくことができない。市場の保護と新市を開くのが、領主の重要な政策になる。
 
 【楽市】戦国大名は、土豪たちの支配下にあって封鎖的な市座を、分国市場の一つとして編成するため、いままでの市場税を撤廃し、自由通商を許し楽市(らくいち)とした。三河の牧野氏は享禄(きょうろく)三年(一五三〇)、中窪に城下町をつくるとき、四月八日から十五日まで馬市をたて、これを楽市にした。楽市は特定の市場に限り特権を与えたもので、商人の出入することを法規で強制される。
 しかしなお進むと、楽市でなく特権商人のもつ座を廃止することになる。この政策は織田信長からのちのことである。それは、戦国大名が推進した商農・兵農分離政策の一環として行なった、都市や商工業者に対する再編成か、統一政策である。しかし楽市とか楽座といっても大名が必要とする物資については例外である。