分国領では、年貢と加地子(かじし)(地主の地代、三斗から一石ほど)の合計が一石(一四〇キロ)ほどで、これに付加米(ふかまい)がつく。大名の直轄領の年貢は大名、知行地はその給人(きゅうにん)が収得する。【本成】永禄(えいろく)三年(一五六〇)七月、松平元康の安堵(あんど)(保証)状には、年貢を「本成(ほんなり)」と書いてある。【畠銭】今川義元は駿河泉郷で畠銭をかけている(『杉本文書』)。
年貢米を貨幣で納めることが、鎌倉中期ころからはじまる。【貫高制】一定地の年貢の高を、永楽銭(えいらくせん)で何貫文の土地と表示するようになる(貫高制)。その基準として米麦の法定価格があった。米は百文に一斗二升から四升、麦は三斗五升である。【田畠の分類】今川氏は、田畠ともに上・中・下に分類し、田を米方(米で納める土地)と代方(だいかた)(分銭)にわけている(天文廿一年霜月十五日駿河佐野郷御検地割付『柏木文書』)。また年貢枡を用い、三斗五升俵であった(永禄九年九月三日小笠原氏興判物『矢入文書』)。
【吉美御蔵 浜松御蔵】徳川家康は宇布見(浜名郡雄踏町)の年貢を「吉美(きび)御蔵」と浜松御蔵に納めさせた(天正十五年分勘定書「中村文書」『県史料』五所収)駿府移城後の処置かもしれない。
【百姓直納】新しい小名主は「百姓直納」である。現金はないのだから現物納を要求するようになり、大名はこの要求を入れることになった。また大名も軍隊の増強にそなえて、兵粮米の大量確保にのりだした。年貢の銭納が米納に還元されるのはこのためである。
【在家役】在家に対しては在家役(ざいけやく)がかかる。