中世の枡は複雑である。年貢の種類・納税地によって容積のちがう枡が使用された。同じ荘園でも場所によってちがうばあいもある。また荘園領主でも大名のでも納枡(おさめます)と下用枡(げようます)(支払用)とは容積のちがうのがふつうである。
【市場の枡 商業枡 公定枡】しかし余剰生産物(米穀)が商品として売りだされるようになると、荘園ごととか、小地区ごとに容量のことなる枡が通用しているのはこまる。農村の枡は、荘園市場の枡に統一され、それは地方の商業都市の商業枡に統合されてきた。これらの商業枡は、戦国大名により公定枡として採用される。
【下方枡 上方枡 下方俵】駿河・遠江地方でもっとも普遍的なのは「下方枡」である。『矢部文書』や『植松文書』によると駿河富士郡一帯を「下方」といった。「下方枡」はこのあたりで使用された地域枡である。『徳願寺文書』によると「上方枡」もあったが、それほど普及しなかったようである。「下方枡」は天文二十年(一五五一)、今川義元が駿河府中の臨済寺にあてた寄進状にみえ、翌二十一年義元が遠江二俣の光明寺にだした寺領安堵状(『可睡斎文書』一)にも「下方俵」とある。さらに今川氏真は永禄六年(一五六三)ころ、遠江堀江(当市内)で「下方枡」を採用している(『中村文書』)。【見付の枡座】徳川家康は永禄十一年遠州に進むと、見付の問屋衆十二人に枡座を結成させ、判をついた枡を遠江での法定枡とした。おそらくは「下方枡」であろう。家康は、天正十七年の七箇条法度でも「下方枡」を公定枡としている(家康が関東に入国してからは京枡が進出し、ついに公定枡になった)。
【秤】家康は天正十年(一五八二)甲斐(山梨県)に入ると、武田時代からひきつづき守随(しゅずい)彦太郎信義に対し、甲斐一国に通用する秤の製造と管理を一任した。家康は天正十一年十月、分国中で黄金は守随の秤で商買させると指示した(『守随文書』)。遠江国もふくまれている(林英夫・浅見恵編『守随秤座文書』)。