今川氏の徳政

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 【井伊氏の抵抗】永禄十年(一五六七)八月、今川氏真は井伊谷にも徳政を令した。しかし井伊直政は、祝田郷中(引佐郡引佐町祝田)・都田(当市都田町)の上下の給人衆に命令して徳政令を実行させない。それは債権者(引馬の土倉たち)の反対によるものである。本百姓は訴訟を申したてる。【今川氏のねらい】翌十一年八月、今川氏はまた井伊氏に命令している(『蜂前神社文書』)。農村と都市の金融資本との相剋、今川氏が、せまりくる徳川氏の勢力を懸念して有力農を把握しようとする政策である。
 明応四年(一四九五)和泉堺(大阪府堺市)では、畠山尚順の兵火をまぬかれるため、一万貫文(一枚一文の銅銭千枚で一貫文)を献金している。この貨幣と商品の特別税が、大名にとって大きな魅力である。