天竜川と馬込川

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 天竜川と馬込川は、ともに大きな河川である。
 
 【河道の変遷】天竜川は、もといまの馬込川(奈良時代の「あらたま川」、平安時代は広瀬河、山科言継(やましなときつぐ)は引馬川と、その日記に書いてある。)を流れていた。それが中世の末までに大きく変化する(天竜川本流の変遷については、谷岡武雄「天竜川下流域における松尾神社領池田荘の歴史地理学的研究」『史林』第四十九巻第二号を参照)。

馬込川(浜松市松江町付近)


安間川(浜松市安間町付近)

 【東に移る】いまの馬込川・安間川・天竜川・磐田市天竜のあたりに河道が残る分流の、少なくとも三つの大きな流れにと東部に移った。『海道記』に天中(あまのなか)川、飛鳥井雅有の『もがみの河ぢ』で「てんちうという川」とあるのは、天竜川の真中(まんなか)の流れの意味であろう。いまの天竜川(『吾妻鏡』承久三年五月廿八日の条にも「天竜河」とある)のことである。【池田宿の位置】池田宿はもと天中川の西岸にあったが、鎌倉時代末の洪水で河床になったため、東岸に移された。天中川流域は、安定が悪く、池田宿も川の至近距離でなかった(『海道記』など)。天竜川の渡津はいくつもあったが、『延喜式』で駅路がきまってから池田宿が繁栄しだした。
 
 【大天竜 小天竜 安間川】天竜川は室町時代の末には、大天(だいてん)竜(大天)・小天(こてん)竜(小天)の大きな二流になった。「大天」はいまの天竜川である。永正十一年(一五一四)に今川氏親が井伊谷に井伊次郎を攻めたときには、笠井荘(当市笠井町)から川をわたり大菩薩に陣したとあるから(『宗長手記』)笠井の西を小天竜が流れていたことになる。安間川がこの条件にあてはまる。延宝元年(一六七三)山鹿素行の著した『武家事紀』(続集四十一)には「小天竜トハ、浜松ノキワヲ流ルゝヲ云ナリ、此間ニ中町・アンマ其外村有」とある。中世では天竜川がこの三つ以上の流にわかれていた。旅人は、天中川のあまりの壮大さに他の流れなど心にとめなかった。