当時の紀行文

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 【飛鳥井雅康】明応八年(一四九九)五月、飛鳥井雅康は富士山見物のため下ったとき、鷲津から宇布見・引馬にでた。帰途は引馬から宇布見で乗船、吉美の妙立寺で一首を詠じた(『富士歴覧記』)。
「よこ雲の引まの里をへたてきて又たくひなきふしの曙」
 
 【尊海】天文二年(一五三三)十月に、仁和寺真光院尊海は知人の墓参のために、駿河清見が関まで下向した。浜名の橋のあたりで一首を詠じ、引間宿にとまり、
「しるべして袖をひくまの野を行ば萩やおはな(すゝきイ)の雪の(霜イ)降えに」の一首を作った(『あづまの道の記』)。
 
 【宗牧】天文十三年(一五四四)連歌師宗牧は、井伊谷から都田・引馬にでている(『東国紀行』)。
 
 【山科言継 引馬宿の伝馬】山科言継は、弘治二年(一五五六)九月、駿河府中(静岡市)に下った。九月二十日白須賀・今切渡・舞坂で一宿。今切の渡で京都下京の商人に書状をたくした。二十一日発足。三里で引馬。人夫と伝馬のことを飯尾善三郎乗連(『鷲津本興寺棟札』)に太刀をおくりたのんだ。しかし三河に出陣中とのことで持ってかえる。引馬川(馬込川)をわたり、天竜川を渡船した。船賃のことで喧嘩をし、長(おさ)の二人がかけつけことなくすんだ。翌三年三月に帰途につき、九日見付の街をすぎ、一里で池田・天竜川、すぎて二里引馬についている(『言継卿記』)。【里村紹巴】永禄十年(一五六七)里村紹巴も同じ行程をとった(『紹巴富士見道記』)。

言継卿記 弘治二年九月二十一日条(東大史料編纂所蔵)