家康の渡舟規定

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 【天竜川】徳川家康は天正元年(一五七三)十一月、天竜川の渡船の規定をつくった(『水野文書』)。【経営費】船頭は十人らしく、その経営費は分国中の勧進米をあてたが、さらに船頭に年貢はおさめさせるが、諸役を免除して、渡船業務をたすけさせた。また天竜川沿岸の池田の行興寺もその渡船に関係している。【軍事の場合】徳川氏は一日大船一艘、大軍の移動には三艘をすぐに提供するよう義務づけている。
 
 【今切渡の管理】浜名湖が太平洋にひらく湖口四キロに近い今切渡(後藤長徳は、享禄年中(一五二八-一五三一)、十九歳で薩摩国を出発し、関東に下る途中、今切のわたしで難船し、書籍を失った。『寛永諸家系聞伝』九十八)を管理したのは今川氏である。【資材】ここの渡船資材として、分国内の社寺の境内の山林から徴用した。永禄十二年(一五六九)から徳川家康の管理にうつる。家康は、天正二年(一五七四)天竜川とまったく同じ規定をし、この渡場の経営を土地の船頭にまかせながら、強い統制の手をのばし、運用に万全をきした。