伝馬の制度

638 ~ 638 / 706ページ
 後北条・今川・武田・上杉・徳川など東国地方を中心とする大名は、街道にもうけた宿郷(しゅくごう)という聚落で、駄馬(だば)や乗馬をつぎたてる伝馬(てんま)の制度をつくった。【宿】これらの地方では、本城を中心として支城とを連絡する主要道路には、一定の間隔をおいた郷や村に宿(しゅく)をつくり、旅人を泊らせた。また宿の特定の人には伝馬役、つまり馬匹をつぎたてる役をつとめさせ無賃で運輸させた。これが戦国時代の駅制である。
 【宿駅と聚落 問屋】この宿駅を維持するためには聚落が必要である。新しく市場をつくるとか、市場をとくに保護する政策がとられた。この伝馬営業の組織化されたのが問屋(といや)である。その経営者は、名主(みょうしゅ)などであり、代官・伝馬奉行・惣司などとよばれ、民衆を相手に旅館と伝馬業を経営し、また大名などの伝馬の役を負担した。問屋は、支配下に数軒から十軒ほどの伝馬屋敷をもつ集団の伝馬業者と、散在している伝馬業者をもっている。
 
 【問屋の権利と業務】問屋は、彼らを指揮し、領主の伝馬役をつとめる。そのかわり一般の旅人と商人の伝馬を営業し、賃銀をきめる権利を与えられていた。【商人宿】往来する行商人は、すべて問屋の商人宿に泊る。この宿駅は、交通路がふえたため、にわかに発達した商業聚落であって、分国経済の確立にかくことができない。【見付の米屋弥九郎】遠江見付(磐田市)の米屋弥九郎は、宿屋で問屋を経営しており、徳川家康は、彼らの営業上の特権をそのまま認めている(『成瀬文書』)。
 戦国大名の駅制の成立した地域は、水運の便が少なかった自然の地理的条件によることが多い。
 
 【運賃 手形】伝馬は、公用・軍用・特定人・軍需物資に対して無賃である。今川氏は永禄元年(一五五八)の定めで、一里を十五銭(文)とした。公用でも今川氏は一日五疋と制限してある。永禄二年三月、今川氏は駿河・遠江・三河の宿駅に対し、伝馬一疋をださせた(『屋代本文書』)。伝馬を利用するには、公用・私用とも手形が必要である。