【造船策】水運は、船舶と水上交通業者とによって運営されるのだから戦国大名は、この二つを確保することにした。まず現存する船舶の減少をふせいだ。そして造船の政策がとられる。
室町時代には、内航船でも外航船でも、七千七百石積が最大で、千石(一〇〇トン)以上は多数であった。わが国の船は竜骨をつかわぬため弱い。しかし帆布が上下し、帆柱の起倒も自由であるのは、わが国独特の構造であるという。
【今川氏の公方船】大名も船をもっている。今川氏は「公方船」という(『中村文書』)。【資材】その公有船をつねに造船できる体制をつづけることと、資材の準備が必要である。そのため木材と船大工をいつでも多量に徴用できるように計画された。今川氏はその分国駿河・遠江・三河で渡船とか海上船を建造するにあたって、その資材を社寺や領民から徴発した。【今切渡の造船】永禄五年(一五六二)今切の渡船の造船には、いままで免除であった神社の境内の木材六本を切った(『天宮神社文書』)。
【船大工】船大工や船番匠は、水辺の村落に住み、注文者の依頼におうずるのだが、一定期間は、大名の夫役がある。
【寄船保護】今川氏は、駿河・遠江二国の沿岸に漂着した寄船、つまり難破船を不法に押領するのを厳禁している(『今川仮名目録』二十六条)。また徳川氏は、分国中の港湾のすべての業者の諸役を免除した。
天正五年(一五七七)十一月、武田氏は遠江白羽郷に対し、逃亡中の農民の還住を命ずるとともに「渡海の奉公」を義務づけた(『白羽神社文書』)。その農民は半農半漁であろう。