徳川氏の烽火制

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 敵兵が侵入したときに、これを本城に急報するため烽火(のろし)の制度を定めた大名がある。【三ヶ野坂 一言坂】徳川家康は武田の兵が駿河に侵入したときに、小夜中山・掛川西の山の上・見付東三ヶ野坂上・同西一言坂上に一か所ずつ烽火をあげさせて、浜松城に急報させる制度を定めた(延宝弐年寅ノ七月付、遠州見付町問屋太郎兵衛等連署見付町田畑定納由緒書上控「成瀬文書」『静岡県史料』五所収)。

一言坂(磐田市一言)