寺院は、にげこんできた犯人を保護し、その避難所(アジール)としての役割りをはたしていた。それは守護不入の権利にまもられた寺社の権威である。戦国時代はこの「走入」が多かった。生活の不安などのため犯罪人や下人(げにん)の逃走者が多かったのである。大名は行政上の必要からわずかに、とくに縁故のある社寺にだけ認め、多くは否定している。今川氏も大永六年(一五二六)の『今川仮名目録』で、駿河府中(静岡市)のうちの不入地の権利をとどめ、天文二十二年の『今川仮名目録追加』になると、分国中の守護使不入を認めないことにした。【除外例 鴨江寺】しかし、たとえば鴨江寺のように氏真は除外例を認めている。天正八年(一五八〇)四月二十五日、徳川家康は三河大林寺に犯罪人のにげこむ権利を認めないことにした。
また下人の「走入」を認めなかったのは、辺境地区の大名である。この地方は下人から新しく名主に成長しつづけている。だから下人に対し問題をおこすと、すぐに寺院に「走入」したり抵抗する。大名がこれを黙認すれば、農業生産の機構にひびがはいる心配があった。