【竜雲寺と木寺宮】入野の竜雲寺が木寺宮に関係があるというのは、浜松藩士永井随庵が主命で延宝八年(一六八〇)に浜名湖周辺を巡歴したときの手記『随庵見聞録』(『浜松市史史料編二』所収)に古老の説として誌したのがはじめであり、内山真竜の『遠江国風土記伝』(一七九八)にも引用している。その確証はあげていない。また竜雲寺内に「木寺宮康仁親王墓」が伝存している。しかし同親王は京都地方で薨逝されたことが確実である(『園太暦』文和四・四・廿九)。ただ天正八年五月廿八日付徳川家康判物によると、「大宮様」とあり、「御局」にあてているなど丁重な取り扱いである。また天正八年三月十八日付武田家朱印状は「赤津中務少輔」にあて、『遠江国風土記伝』では木寺宮八世としている(康仁親王は中務卿)。後二条天皇(一二八五-一三〇八)の皇子邦良親王(木寺宮の初祖)の旁系の人と考えれば、矛盾はないであろう。当市や周辺には南朝にゆかりの地が多いから、大覚寺統の木寺宮の旁系が滞在していたことはありえよう。
戦国大名は、宗教に対し信仰はしたが、宗教を分国統治の政策に利用することを忘れなかった。
徳川家康判物(浜松市入野町 竜雲寺蔵)
伝木寺宮康仁親王墓(浜松市入野町 竜雲寺)