連歌と俳諧

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 連歌は、室町時代の復興期に宗砌(ぜい)( -一四四五)が、応仁の乱ののちは宗祇(一四二一-一五〇二)が指導者となった。戦国時代になると、専門の連歌師がふえる。宗長・肖柏(しょうはく)・宗碩(せき)・兼載(けんさい)が一流である。宗祇は、貴族文化の伝統に庶民の感覚を調和させ、独特の境地をひらいた。しかし形式化した連歌でなく、庶民の教養と感覚にふさわしい俳諧連歌をうちたてたのが、荒木田(あらきだ)守武と山崎宗鑑である。のちの俳諧のおこりである。守武は、六十八歳の天文九年(一五四〇)に「誹諧之連歌独吟千句」(飛梅千句)をよみ、宗鑑は天文八年ころ『新撰犬筑波集』を選び、ともに有名になった。
 
 【宗長と引馬】連歌師宗長(一四四八-一五三二)は、大永六年(一五二六)三月駿河から京都に帰る途中で、天竜川の西の浜松荘の飯尾善四郎(豊前守ともいう)乗連の亭で、
「すみれさく野は幾すぢの春の水」
との連歌を賦した(『宗長手記』)。
 
 【紹巴と頭陀寺】里村紹巴(一五二七-一六〇二)は永禄十年(一五六七)十月、駿河からの帰途、引間の頭陀寺に一宿した。そのころ十年近く在洛していた旧友の為雲は、嫡子で都築宗左衛門の弟頭陀寺千手院某のところに滞在しており、紹巴を天竜川畔まででむかえた(『富士見道記』)。おそらく連歌の会がもたれたであろう。