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井伊直虎とその時代

【 解説 】
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解説「井伊直虎とその時代」

夏目琢史(国士舘大学文学部講師)

≪解題≫

 平成29年NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・直虎(次郎法師。「直虎」というのは、永禄年間の一時期、次郎法師が称した仮名(けみょう)にすぎないが、ここでは「直虎」に統一して記す)に関する史料は非常に少ない。今回の事業の中で公開している25点の資料は、浜松市と井伊谷龍潭寺(以下、「龍潭寺」と記す)が所管する資料であるが、関連資料をほぼ網羅しているといえるだろう。ここでは、直虎の生涯を概略しつつ、資料について簡単な解説をしていきたい。

≪井伊直虎の出生とその出自≫

 直虎の出生については分からない点が多い。まず、誕生の年月日がわからない。それから出生の地についても不明である。ただ一点明らかなのは、彼女が井伊直盛とその妻・祐椿尼(新野左馬助の妹)の間に生まれたということである。井伊直盛は井伊直平の長男・直宗の子であり、井伊家の嫡流に当たる。直虎はその一人娘であるから、戦国の「姫」ということになる。

 直虎の曾祖父に当たる井伊直平の事績については、「井伊直平公御一代記」(川名渓雲寺蔵)に詳しい。「井伊直平公御一代記」の作成経緯は不明であるが、江戸時代に成立したものとみられ“史実”を反映したものとはいえない。しかし、江戸時代の引佐地方の人びとが、井伊直平についてどのように考えてきたのかを知る上で欠かせない資料といえよう。井伊直平の墓所があり、縁が深かった川名では、古くからこのような形で直平について伝承してきたのだろう。
 直平や直虎を含め、遠江井伊氏が残した同時代史料(一次資料)は極めて少ない。その中で大変貴重なものが、「蜂前神社文書」(浜松市博物館所管)である。この一連の文書群は、羽鳥大明神(のちの蜂前神社)の神主荻原采女によって保管されてきたものであり、嘉永2年(1849)にその内容の詳細が龍潭寺へと伝えられている。井伊家歴代の当主が発給した文書がまとめて残る点で大変貴重である。
 ただし、この史料は断片的なものであり、井伊直平・直盛・直虎の生涯を詳述したものではない。彼らの生涯は、後世に書かれた編纂物を頼りにみていくほかない。

≪「次郎法師」としての活躍≫

 天文年間、遠江井伊氏は大きな苦難を受けることになった。井伊直平の長男・直宗が戦死したことと、井伊直満・直義が今川氏によって謀反を疑われて処刑されたことが、その大きな要因であった。この経緯について詳細に記しているのが、龍潭寺住職の祖山法忍によって執筆された『井伊家伝記』(龍潭寺蔵)である。ここには、駿府に呼び出された直満・直義兄弟が「私之軍謀相企」てた罪により、天文13年(1544)12月23日、駿府において「傷害」(処刑)された経緯が書かれている(上巻、11頁)。直満の息子であった亀之丞(後の井伊直親)は、この事件を契機に追っ手を逃れ逃亡生活に入る。亀之丞は家臣の今村藤七郎に連れられて、東黒田の集落から渋川東光院、それから信州松源寺へと落ち延びたという。亀之丞が一時避難した渋川東光院は古来より井伊家とゆかりの深い地である。中世の渋川井伊氏の事績については「井伊家遠州渋川村古蹟事」(東光院蔵)に詳しい。

一方、亀之丞と別離した直虎は、井伊家の菩提寺・龍潭寺の住職南渓和尚のもとで出家し「次郎法師」と名乗った。南渓和尚は井伊直平の次男であり、直虎からすると大叔父にあたる人物だ。その肖像画「南渓瑞聞頂相(ちんぞう)」(龍潭寺蔵)が今回デジタル化されて手軽にみることができるようになった。南渓の先代住職の龍潭寺開山である「黙宗瑞淵頂相」(龍潭寺蔵)とともに注目されるものだ。

≪龍潭寺の社会的位置≫

 井伊家の菩提寺である龍潭寺という寺院が、どのような寺院であったか確認しておきたい。臨済宗妙心寺派の龍潭寺は、小堀遠州作の庭園が有名な東海地方を代表する禅宗寺院である。その境内は、明治期に描かれた「龍潭寺銅版画」(浜松市中央図書館蔵)よりうかがい知ることができる。永正4年(1507)の「井伊直平寄進状写」(龍潭寺蔵)には「龍泰寺」とあり、元々は「龍泰寺」という名で呼ばれていたことが知られる。寺宝の一つである中国南宋時代に作成された「宋版錦繡萬花谷(そうばんきんしゅうばんかこく)」(龍潭寺蔵)は旧金沢文庫の所蔵であり、寺伝によれば織田信長の遺品として同寺に寄贈されたものだと伝わる。同寺は、今川義元・徳川家康から判物を受けており、天正14年(1586)の「徳川家康判物写」(龍潭寺蔵)には、「三位中将藤原家康」という名前がみられる。もちろん家康は「源」姓を称すため、この史料は大変珍しいものである。

≪次郎法師寄進状からみえる世界≫

龍潭寺で出家したといわれる「次郎法師」の活躍を示すもっとも重要な一次史料が「井伊直虎置文」(龍潭寺蔵)である。ここでは、「次郎法師」の署名・黒印が押されており、宛所は「龍潭寺」ではなく「南渓和尚」となっている。史料の基本的な内容は、龍潭寺への寺領の寄進であり、今川氏によって実行される徳政令を意識して発給されたものと推定される。特に注目すべきポイントは2点であろう。一つは井伊谷周辺の屋敷地が克明に書かれているところだ。そしてそこには人の名前もみられ、「次郎法師」がこの地域の土地をよく把握していたことを示している。二つ目は、「自浄院」「道鑑」「信濃守」などの歴代井伊家の当主の名前が散見されるところだ。「次郎法師」が、井伊家歴代の菩提を弔う役割を果たしていたことが推察されよう。

≪井伊直虎を支えた人びと≫

 井伊直虎の周囲には、多くの譜代の家臣がいたことが推測されるが、その実態は不明である。「伊平実記」(龍潭寺蔵)は、その中の井平氏について考証したものであり貴重である。天明3年(1783)に野末氏による写本というが、この書物からは、江戸時代の伊平近辺の様子がよく伝わってくる。特に「仏坂」に関する記述は、江戸時代の引佐地方の人びとの信仰形態を知る上で興味深い。なお、戦国期の井伊家や龍潭寺と深く関わった豪商・瀬戸方久にまつわる同時代の「今川氏真判物」(個人蔵)も見逃すことのできない資料である。

 次郎法師が「直虎」として城主をつとめたのは、ほんの一時的なものである。しかし、亀之丞(井伊直親)が死去してから、その息子・虎松(後の徳川四天王・井伊直政)が成長するまでの中継ぎ役として彼女が大きな役割を果たしたことは間違いない。ちなみに、井伊直政の活躍については、『井伊家伝記』だけではなく、「井伊氏天正記」(龍潭寺蔵)にも詳しい。

≪次郎法師物語の生みの親・祖山和尚≫

さて、今回のデジタル化事業では、祖山(1672~1740)の姿は、「祖山頂相」(龍潭寺蔵)として公開された。これは、祖山生前の元文4年(1739)に描かれたものであり、その面影をよく伝えているだろう。祖山は、朝廷をはじめ、与板や彦根の井伊家の家臣たちとも交流を持つ高僧であり、広範囲な活動をみせた。『井伊家伝記』を作成するに当たって、様々な調査を行い、付随する記録をたくさん残した。その一つが「井伊氏系図 祖山筆」(龍潭寺蔵)である。

上に掲げた史料などをもとに、今後、直虎研究が進展し、多くの人びとに直虎の魅力を知っていただきたい。