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東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ

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東広島市の石造物 (白市稲荷神社力石 しらいちいなりじんじゃちからいし)

東広島市の石造物 / 白市稲荷神社力石 しらいちいなりじんじゃちからいし 所在地 東広島市高屋町白市 年 代 江戸時代,形 状 花崗閃緑岩 高さ三〇cm ヨコ五五cm タテ一六〇cm 銘 文 力石 七十五メ(貫) 白市,概 要 江戸時代、神社の例祭での余興に力自慢の若者が力石を持ち上げてその腕力を競った。,港町では荷の運搬が盛んで力自慢の男が多く、神社、仏閣に「奉納、力石、何貫、紀年銘」が刻まれた石がたくさん,[白市稲荷神社力石] / 白市稲荷神社力石 しらいちいなりじんじゃちからいし
東広島市の石造物 (溝口立石 みぞくちたていし)

東広島市の石造物 / 溝口立石 みぞくちたていし 所在地 東広島市高屋町溝口 年 代 不明 形 状 花崗岩 高さ一〇三,地名「立石」には2種類ある。,一に古代道の標識、二に先端が尖った細長い自立した自然石で崇拝の対象となる。  ,田万里に至る道はほぼ直線路で道幅も広く平坦で「牛追い道」とも言われ、人力車で田万里から溝口に嫁入りした,[溝口立石] / 溝口立石 みぞくちたていし
東広島市の石造物 (榊山神社百度石 さかきやまじんじゃひゃくどいし)

東広島市の石造物 / 榊山神社百度石 さかきやまじんじゃひゃくどいし 所在地 東広島市安芸津町三津 年 代 不明 形 ,状 花崗岩 高さ一四一cm ヨコ二五cm タテ二四cm 銘 文 百度石 概 要 社寺の境内で一日に,百度お参りをする起点の標識として立てた石柱。  ,神社拝殿と百度石の間の距離が長いと体力と気力を必要としたであろう。 [榊山神社百度石] / 榊山神社百度石 さかきやまじんじゃひゃくどいし
東広島市の石造物 (白市稲荷神社石造狐 しらいちいなりじんじゃせきぞうきつね)

東広島市の石造物 / 白市稲荷神社石造狐 しらいちいなりじんじゃせきぞうきつね 所在地 東広島市高屋町白市 年 代 江戸時代,献主 四日市住 向胡屋     安政四丁巳春     竹原伊予屋久五郎 原久文立     尾道石工佐七, 安政四年歳在 丁巳三月吉日 概 要 本稲荷神社には石造の狐像が迎えてくれる。  ,キツネの語源として、「食物の素」のことを古語で「ケツネ」と云ったのが基という説が有力である。,[白市稲荷神社石造狐] [白市稲荷神社石造狐] / 白市稲荷神社石造狐 しらいちいなりじんじゃせきぞうきつね
東広島市の石造物 (ち)

東広島市の石造物 /   力 石 ちからいし  力試しにかかえあげる石。神社の境内などに置かれる。,港には力自慢が多いのでその近くの神社に多く置かれている。,  手水鉢 ちょうずばち  寺社で参拝の際、手などを清めるための水を溜めておく石製の鉢。,桃山時代に入ると茶人が古い石造物を手水鉢に見立てて茶室の脇におくことが流行する。  ,参道が長いことから距離を町、丁で示した石造物をいう。
東広島市の石造物 (4 宝篋印塔 ほうきょういんとう)

東広島市の石造物 / 中国伝来の小型金属製で形状が宝篋印塔に似ている銭弘俶塔に宝篋印陀羅尼が納めてあったため、日本でこの種の石造塔,宝篋印塔は銭弘俶塔の特徴を備えているので、従来は日本を起源とする説が有力であったが、最近中国の石造宝篋印塔,について日中で研究が行われ中国を起源とする説が有力である。           
東広島市の石造物 (小越四面種子板碑 おごししめんしゅじいたび)

東広島市の石造物 / 小越四面種子板碑 おごししめんしゅじいたび 所在地 東広島市八本松町正力 年 代 室町時代 形 ,状 花崗岩 高さ九二cm ヨコ三八cm タテ二六cm 形 式 自然石板碑 種 子 (正面)主尊ウーン・,、(右側面)アク・不空成就如来 銘 文 彼岸 □□□□本来空々本来無一物樹々松人々 概 要 元は石橋
東広島市の石造物 (鏡山城跡井戸 かがみやまじょうあといど)

東広島市の石造物 / 鏡山城跡井戸 かがみやまじょうあといど (史跡) 所在地 東広島市鏡山 年 代 南北朝時代(有力説,城内にあった自然石を竪穴の周囲に張り詰めた素朴な造りである。             
東広島市の石造物 (ひ)

東広島市の石造物 /   百度石 ひゃくどいし  社寺の境内で一日に百度参りの起点の標識として立てた石。,以後高屋を完全に領国とし安芸国の有力な国人領主とし臨機応変に大内氏、尼子氏、毛利氏に協力し領国を経営し
東広島市の石造物 (岩ノ前遺跡地蔵種子板碑(1) いわのまえいせきじぞうしゅじいたび)

東広島市の石造物 / 八本松歴史民俗資料館) 年 代 室町時代 形 状 花崗岩 高さ七六cm ヨコ四〇cm タテ二八cm 形 式 自然石板碑,種 子 カ・地蔵菩薩 銘 文 無銘 概 要 発掘場所は現在八本松町正力団地となっている岩ノ前遺跡
東広島市の石造物 (こ)

東広島市の石造物 / 鎌倉時代のものは重いものを支える力強さがあるとされる。,  虎口石 こぐちいし  城の曲輪門を固める石を虎口石という。  ,東広島市の神社参道に設置されている石造狛犬の主な形式は①尾道形(玉に足を掛けているタイプ)と②出雲形(,   最古の紀年銘 宗像大社石造狛犬 福岡県 建仁元年(1201)  (注) 尾道形、出雲形,石塔では塔自体を大日如来とするので他の四如来を金剛四仏という。
東広島市の石造物 (福富魚塚 ふくとみうおづか)

東広島市の石造物 / みすみつき 人の世に 和して栄よ 水神の子ら 鰻吉 概 要 福富魚塚は「魚塚」本体と「魚塚縁起」の2基の石碑,現在は町民の努力によりその願いがかなえられ、魚の住む川になっている。             
東広島市の石造物 (あ)

東広島市の石造物 / の殉国犠牲者と町の発展のために特別に功労のあった人の英霊に弔意と敬意を表すために聖地を選び建立された石造,教育功労者   松本学校創設者  松本隆興殿   西条女学校創設者 西島嘉六殿   育英校創設者   石井群造殿,産業功労者            木村静彦殿            島 博三殿            石井峰吉殿,められているという伝承があった塚を昭和七年(1932)に発掘調査したところ、心礎をはじめとした塔の礎石が,  荒谷家墓地 あらたにけぼち  荒谷氏は竹原・小早川氏の有力家臣であり、堀、土塁がめぐらされた
東広島市の石造物 ([遺物編目次])

東広島市の石造物 / 9百度石  榊山神社百度石(安芸津町)……45  三種神社五百度石(安芸津町)…46 10町石, 白市稲荷神社石垣…………………55 2石段  今岡神社石段………………………56 3虎口石,72 6原爆碑  東広島市原爆死没者慰霊碑………73  賀北部隊原爆被災者救援之碑……73 7力石, 白市稲荷神社力石…………………74 8境界石  安芸・備後国境界石(豊栄町)…74  賀茂, 旧木原家住宅石こたつ……………79 13石庭  壽延庭石庭…………………………80  仙石庭園石庭
東広島市の石造物 (て)

東広島市の石造物 / 大正二年(1913)竹原火力発電所開設。竹原町、忠海町に給電開始。  ,大正三年(1914)竹原火力発電所から西条町、三津町に給電開始。  ,(旧椋梨川発電所本館)  大正十四年(1925)竹仁水力発電所開設。  
東広島市の石造物 (お)

東広島市の石造物 / 沖田嘉市はこれを解消するために独力で鷹巣山にトンネルを掘り、深道池に水を引く工事に着手した。,念仏を唱えながら自力でトンネルを掘り進んだ。
東広島市の石造物 (荒谷家墓地 あらたにけぼち)

東広島市の石造物 / 荒谷氏は竹原・小早川氏の有力家臣であり、応仁年中(1467~1469)にこの地に進出したと考えられている
東広島市の石造物 (下見廻国記念碑 したみかいこくきねんひ)

東広島市の石造物 / 行者は白衣を着て背に仏像入りの厨子や笈摺を背負い、家々に合力を求めて廻国した。
東広島市の石造物 (中の峠隧道 なかのたおずいどう)

東広島市の石造物 / 沖田嘉市は独力でトンネルを掘ることを決心し、昭和二年(1927)工事に着手した。  
わたしたちの東広島市(日本語) (<八本松町にのこる歴史があるもの>)

八本松八十八石仏(せきぶつ)  今のように車が十分利用できない時代に,四国88ヵ所をすべておまいりするのは,そこで,四国88ヵ所のお寺それぞれの中心となっている仏様を,1番から88番まで,石仏としてちょうこくしました,1926年,堀岡熊次郎(ほりおかくまじろう)さんが中心となり,人々が協力して作りました。,54年ぶりに見つかった石仏 39番 堀岡熊次郎さん
わたしたちの東広島市(日本語) (<黒瀬町にのこる歴史があるもの>)

岩幕山古墳(いわまくやまこふん)  古墳(こふん)はむかしの王のはかといわれていますが,地方で力を,あの山は,私たちの身の回りにたくさんあるコンクリートにまぜる石をとっている山なのです。
わたしたちの東広島市(中国語) ((1)中之岭隧道与冲田嘉市)

有的地方还留下了传颂这些工作的石碑和故事等。,他们叫来了石匠,还使用了炸药,工程热火朝天地开展了下去。,冲田先生则四处帮忙,齐心协力,拼命地工作。,石匠来了,但未坚持。   1930 昭和5 从板城等地来了4名石匠。 开始水渠工程。,帮忙准备石匠的伙食。  
わたしたちの東広島市(日本語) (読み物資料「沖田嘉市さんと柏原の米づくり-小玉正徳(こだままさのり)さんの話から-」)

年たったときがちょうど日照りだったこともあって,1人で30メートルほどほっているのを見て,みんなが協力したらできるだろうということで,とはいえ,せまいところなので,村から交代で2~3人くらいずつ人が出て,先頭を石工がほっていったんです。,石工さんは固いところはダイナマイトを使ったので,ずいぶん作業がはかどったというわけです。,沖田さんはみんなが手伝い始めてからは石工さんの炊事の世話をしたり,小田山川からの水路をほったりもしたらしいです
わたしたちの東広島市(日本語) ((1)中の峠ずい道と沖田嘉市)

そのはたらきを伝える石碑(せきひ)や話などが残っている地域もあります。  ,石工(いしく)さんをよび,ダイナマイトも使って,工事はどんどんはかどりました。,沖田さんは手伝いにまわり,力を合わせて一生懸命(いっしょうけんめい)はたらきました。,石工が来るが続かない。   1930 昭和5 板城などから4人の石工が来る。,石工の炊事の手伝いをする。  
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