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解題・説明
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この資料は平成9年3月24日に鈴木泰平より寄贈されたもの。 『日本』が最初に発行停止処分を受けたのは創刊して半年後の明治22年8月6日で、この年はその後も二度発行停止の処分を受けている。その後、発行停止処分が明けた明治24年6月25日の「夜須味録」で「記者固より治安妨害などの恐ろしき企を以て記したる覚なきは勿論なり、発行停止は往々斯の如き場合に来るが故に、今と為りては読者も記者も此の処分を見て刑罰との思薄らぐにいたれり。」と書く(*夜須味(やすみ)録は発行停止期間中の記録の意)。 明治25年11月29日、第四帝国議会が開会する。この議会に「新聞紙条例改正案」が提出された。資料2駒の新聞紙条例改定案で第19条を削除し、第20条を「治安ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル新聞紙ハ内務大臣ニ於テ其新聞紙ノ発売頒布ヲ禁シ及ヒ其新聞紙ヲ差シ押フルコトヲ得」と改める案を示した。議会提出の改正案第15条は「安寧秩序を妨害し又は風俗を壊乱するものと認むる新聞紙は内務大臣に於て其発売頒布を禁し之を差押ふることを得」とあり、資料の提案とほぼ同一である。この「新聞紙条例改定案」は衆議院を通過したが、貴族院で否決された。その後の国会でも、衆議院通過後、貴族院否決が続いた。 ようやく、衆議院、貴族院で改正案が通過したのは第十一回帝国議会の第二次松方内閣の時である。明治30年3月21日、『日本』は社説「新聞停止権の廃撤」で、改正案が通過したことを伝えた。そして、これまで『日本』が受けた発行停止処分は30回、停止日数は230日であるとし、言論の自由を確保したことを伝えた。 しかし、明治38年9月8日、多くの新聞と共に新聞発行停止処分を再び受けている。日露戦争終結後の講和条約に対する報道が政府の忌避に触れたのである。(舘田勝弘)
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