目録ID
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mp000026-200010
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タイトル
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弘前中惣屋敷絵図
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タイトル(カナ)
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ヒロサキ チュウソウヤシキ エズ
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タイトル(ローマ字)
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Hirosaki chusoyashiki ezu
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タイトル関連
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タイトル関連(カナ)
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タイトル関連(ローマ字)
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欧文タイトル
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タイトルに関する注記
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作成者
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作成者(カナ)
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作成者(ローマ字)
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出版・製作者
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出版・製作者(カナ)
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出版・製作者(ローマ字)
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製作年
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寛文13年(1673)
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製作年終
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数量
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1舗
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形状
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大きさ
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大きさ(縦)
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385cm
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大きさ(横)
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376cm
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媒体
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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家中侍の氏名町家の名前を記入
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内容(カナ)
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カチュウザムライ ノ シメイ マチヤ ノ ナマエ オ キニュウ
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内容(ローマ字)
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Kachuzamurai no shimei machiya no namae o kinyu
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解題・説明
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寛文13年(1673)に作成された弘前城下の絵図である。絵図の大きさは東西間が376㎝、南北間が385㎝で、各戸の間口・奥行、居住者名が記入されている。 絵図裏面に「辰九月十一日に御覧遊ばされ候」との貼紙がある。藩主がこの絵図を見分したという記録ではあるが、いつの辰年を示すものか、またどの藩主であったかはこの絵図からは判断することができない。 また、表面にも貼紙があり、それによれば、本図は寛文13年4月21日に江戸に送られた絵図の控図である。下記参考文献『絵図に見る弘前の町のうつりかわり』においては幕府に提出されたものとし、筆者が執筆した『新編弘前市史』においてもその見解を踏襲したが、貼紙に記載された「江戸へ御登せ成され候ひかへ也」とは、絵図を江戸に送ったということと解され、幕府に提出するため江戸に送られたとまではいえない。同じ貼紙によれば、侍屋敷については記載された名の右に別の名が記されている場合は、出仕し役目を与えられている居住者の子供の名であること、屋敷替の場合、居住者同士の話し合いで屋敷地を交換した「勝手替」の場合には、絵図上でも双方の名前を変更すること、藩が命じた屋敷替の場合は絵図上でも「替札」を貼って変更すること、絵図になかった町屋を新たに割り付けた場合には、家屋敷がある場合は居住者の名を記し、空欄の箇所は明屋敷を示すものであることという覚書がある。 万治2年(1659)に作成された「津軽弘前古絵図」と比較して、異同のある点を示すと、以下のような点が目につく。 ①城の南東に新銅屋町(しんどうやまち)(現銅屋町)と新派(しんはだち)町(現桶屋町・新鍛冶町)の取り立て 新銅屋町・新派町のいずれも弘前城の南東に位置する。慶安2年(1649)の「弘前古御絵図」では、新銅屋町は田地となっており、現在の本町の東側部分が銅屋町と記され、後にこの付近は「本銅屋町」と呼ばれるようになっている。本絵図の「新銅屋町」は不完全ながら町割が行われ、17軒の屋敷が存在(うち2軒が明屋敷)する。一方、新派町のうち、のちの桶屋町については、寛文5年(1665)6月頃に派立との記事が『奥富士物語』にある。本絵図では49軒の屋敷割があり、未だ明屋敷が多いことがわかる。のちの新鍛冶町の区域は本絵図では10軒の町屋があるが、こちらも明屋敷が多い。 ②城西では、派町(現西大工町(にしだいくまち))の取り立て、岩木川近くにも町割 一方、城西でも、紺屋町から分かれてのちに西大工町と呼ばれることになる地区が町割され、本絵図では63軒の屋敷割が確認できる(うち町屋24軒)。また、のちの浜ノ町(現浜の町)には駒越川西岸の鰺ヶ沢道に沿って14軒の屋敷割がみえる。 ③城東では、「新派屋敷」(現徳田町・徒町川端町(かちまちかわばたちょう))が取り立て 城東においては、現在の徳田町・徒町川端町の付近に「新派屋敷」がみえる。横町(現和徳町)から南に延びる道筋に不完全ながらも17軒の屋敷割(うち明屋敷12)がなされている。 ④新たな社寺等の記載 新寺町の報恩寺の隣接地に大峰派・羽黒派の修験頭である大行院、同じく新寺町貞昌寺の隣に遍照寺、富田清水付近に御鷹部屋、森町の南側の空き地に時鐘堂が新たに見えている。 ⑤足軽町の喪失 一方、新土手町(現土手町)の外に続く道筋の南西・北東側にあった足軽町の組屋敷はこの絵図にはみえない。(千葉一大) 【参考文献】 乕尾俊哉監修『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年) 『絵図に見る弘前の町のうつりかわり』(弘前市立博物館、1986年)14~15頁
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-071
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管理記号
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L4
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カテゴリ区分
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静止画
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資料種別
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絵図
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資料分類(大分類)
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津軽家文書
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資料分類(中分類)
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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関連画像URL
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自治体史掲載
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寛文の絵図(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第2章第三節)
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出版物・関連資料
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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デジタル化の経緯に関する注記
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