解題・説明
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延宝5年(1677)に作成された弘前城下の絵図である。絵図を収める帙(ちつ)に「弘前惣御絵図」と題簽が張られている。本図は4枚からなり、絵図1枚の大きさは東西間が168.5㎝、南北間が156.5㎝である。画像では見にくいかもしれないが、紙には長さ1分四方の方眼の筋目がある。縮尺は1分=2間、すなわち1200分の1である。屋敷の所持者は直接書き込まれたり、その上に貼札等で変更がなされたりしており、所持者の異動に伴って名義の変更が行われたりしたことがうかがえる。なお空欄になっている屋敷地が非常に多いが、これは改訂の際に訂正された貼札・貼紙の類が年を経て剥落したり、また元禄(1688~1704)から宝永(1704~1711)年間に実施された武家屋敷の郭外移転に伴う情報の記載が十分でなかったり、本絵図に情報が反映されなかった可能性もあるように思われる。 本来絵図を包み保護したと思われる畳紙(たとうし)も残されており、表面には「弘前惣御絵図」の題簽が貼付されている。裏面には絵図作成・改訂の状況が記されており、それによれば、延宝5年6月に吉村場左衛門・武内吉左衛門・斉藤孫左衛門・田沢嘉右衛門・出間彦右衛門・斉藤治右衛門の6人が絵図作成担当の役人となって作成が開始され、同年11月28日に完成し提出したこと、さらに絵図本体に紐で結ばれ着脱可能になっている弘前城の城郭部分が吉村・斉藤孫左衛門・出間・斉藤治右衛門が担当して天和2年(1682)6月から8月にかけて作成されたこと、さらに屋敷の移動・名義変更について絵図を改訂する作業が、まず貞享元年(1684)9月に武内・斉藤治右衛門を担当として行われ、ついで元禄6年(1693)正月に斉藤孫左衛門・出間・斉藤治右衛門と筆者の長山三郎右衛門が担当して実施されている。本絵図に屋敷の移動・名義変更・明屋敷が反映される最後の改訂がなされて提出されたのが元禄15年(1702)5月のことで、大工頭竹中喜左衛門、大工小頭其田左次右衛門・小笠原五郎八、分見大工権三郎、筆者長山三郎右衛門が担当している。この元禄15年の改訂において、初めて担当役人が絵図を当初に作成した人々から入れ変わっている。 この絵図最大の特徴は、岩木川の流路変更が進みつつある城下が描かれている点にある。岩木川は鳥井野村(現弘前市大字鳥井野)で2筋に分かれ、1筋は現在の流路を流れる駒越川、もう1筋は樋ノ口川と呼ばれ、長勝寺の下から馬屋町の西を流れ、紺屋町の北側で駒越川と合流していた。弘前藩は、延宝2年に留切を作り、駒越川に多く水が流れるようにした。これを踏まえ、本絵図では樋ノ口川の流路を「古川」と記している。さらに藩では天和2年(1682)に再度工事を行い、真土(まつち)村(現弘前市大字真土)において留切を設け、駒越川に岩木川の流路を一本化した。この結果、樋ノ口川の一部が城の西堀と化した。また「津軽旧記」(東京大学史料編纂所蔵)によれば、城下茂森町の商人成田五兵衛が存念書を献上し、それが受け入れられて、樋ノ口村から茂森町の旧河道の川原を開発して田地にした(同書七、貞享元年3月是月条)。 その他、寛文13年(1673)に作成された「弘前中惣屋敷絵図」と比較して、異同のある点を示すと、主に以下のような点が目につく。 ①横町が東長町と改称 城の三の郭東門から伸びる町で、「弘前藩庁日記(国日記)」天和3年(1683)3月1日条によれば、和徳町で侍町とされた地域の住人を横町に割り付けて、和徳町高札場までを東長町と称するように命じている。本絵図では1丁目から9丁目まで区分されており、さらに7丁目・8丁目の間に交差する形で、東長町北横丁(のち北横町)・東長町南横丁(のち南横町)が形成された。 ②城の北側にのちの春日町と東川端町の町割がされている 本絵図では、大久保堰を挟んだ馬喰町の後背地、後の春日町の区域に19軒の屋敷割りがされ(うち明屋敷4)、大部分が武家屋敷である。春日町という名称は正徳元年(1711)に名付けられた。のちの東川端町(現徒町川端町(おかちまちかわばたまち))は「弘前中惣屋敷絵図」に不完全ながらも屋敷割がなされているが、本絵図では13軒の屋敷があり、また町内の真ん中に蕨蔵が置かれている。 ③城の西側では新(あら)(荒)町・駒越町に町割 岩木川の掘替工事後、新町の南側、樋ノ口川の旧河道、川原と記されている箇所に町割りがされ、武家が居住した。また、岩木川に向かって賀田(よした)(現弘前市大字賀田)方面に伸びる賀田道が設けられ、道沿いに50軒の屋敷割がなされた。「津軽旧記」によれば、「西大工町近辺之川原地悉く町割となり、駒越村まで引続く、追々数千戸取立候」(同書七、貞享元年3月是月条)とある。これが後の駒越町にあたる。 ④城の南側では紙漉町に町割 城の南東、「清水」(富田清水)とある付近に紙漉町が町割され、「紙漉所」「紙漉喜兵衛」の屋敷が見える。(千葉一大) 【参考文献】 乕尾俊哉監修『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年) 『絵図に見る弘前の町のうつりかわり』(弘前市立博物館、1986年)14~15頁
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