解題・説明
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弘前藩士で、弘前藩の宝暦改革を主導した乳井貢(にゅういみつぎ)(1712~1792)は、財政家としての顔ばかりではなく、和算家、さらには特異な思想家としての一面を備えていた。数学書や農書を含む多数の著作が残されており、自筆本とされるものが子孫から弘前図書館に寄贈され、現在も同館の所蔵となっている。また、中道等(なかみちひとし)(1892~1968)の編になる『乳井貢全集』全四巻(乳井貢顕彰会発行)が昭和10年(1935)~同12年(1937)にかけて刊行されている。 なかでも、宝暦8年(1758)の失脚後、蟄居に服している間に著され、宝暦14年(明和元年、1764)の自序を持つ「志学幼弁(しがくようべん)」は、学びを始めた人に対し、学びに惑うことのないようにとの目的で著されたとされ、乳井の思想を伝える主著とされていて、全10巻からなり、次のような構成で、人間と社会の在り方について論じる内容になっている。 巻一 君臣・忠孝・道法・性命・中庸 巻二 名実・事理・公私・仁義・見識 巻三 自然・成敗・時宜・善悪・勇怯 巻四 金気・法令・武芸 巻五 節用・数道 巻六 常交・賞罰 巻七 迷悟 巻八 治道・諫言 巻九 曲直・無為・雑問 巻十 礼楽 乳井の思想は、本書の巻七において、山鹿素行(やまがそこう)・荻生徂徠(おぎゅうそらい)・太宰春台(だざいしゅんだい)の思想に惹かれていると述べているように、儒学の中でも朱子学に批判的な古学派や蘐園学派(けんえんがくは)の思想の影響下にあった。4代藩主津軽信政が素行に深く親炙し、研究上「素行派(そこうは)」と呼ばれる素行一門・弟子の召し抱えや登用を行っていること、さらには素行の著『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』などが弘前藩から出版されていること、また軍制上山鹿流を採用している事実などから、弘前藩が素行学の大きな影響下にあったことは否めず、そこで人となった乳井の思想形成に大きな影響を与えたと考えることができる。これに加えて、徂徠や春台が説く国家(藩)を豊かにするという観点を持ち合わせており、具体的な経世策は市場経済への対応を促した春台の思想の延長上に位置づけられる。 本書に見られる彼の思想の中核にあるのは、武士としての強烈な職責意識である。乳井は人には天から与えられた分に応じた役割(「天命職」)があり、武士のそれは主君を助けて軍事・行政・経済において統治の任に責任を持つことであるとする。そして、藩が困窮に及んでいるという現実に至っているのは、武士がその分を弁えないため藩を救うことができないことが原因にあるとする。 このような責任に対する意識から、乳井は朱子学の修養の在り方を批判して、目の前の問題に対処することを通じて心を錬磨するべきことを説く。朱子学は身を修めることがやがて民を治めることにつながると説くが、乳井の目にはそれが実際に起こっている課題から逃げているものとして映っているのである。乳井は全力を注ぐべき「今日唯今」の用に役立たないものを排斥し、学問も「今日唯今」に役立つ「功用」を発揮することに価値がなければならないとする。 「志学幼弁」において乳井の特徴的な論が展開されているのが、「武道の正義」に適わないと彼が見做した赤穂四十七士(あこうしじゅうしちし)と豊臣秀吉による朝鮮出兵に対する批判である。乳井のいう「武道の正義」は、人に対しては教え導く立場で罪なき者を殺さず、物に対してはそれを損なわず節制するという二つで、それによって万物を生み育む天地自然の功業に参画することになるとする。 乳井はこの武士の道徳的な務めと彼が位置付けた見方に照らし、赤穂浪士のしたことは、殿中刃傷(でんちゅうにんじょう)の被害者である吉良義央(きらよしなか)を殺害したことにより糾弾されるべきもので、吉良を憎悪するのは「私論」であるとした。さらに四十七士の所業は、公の務めを弁えず私事によって吉良に刃傷に及んだ浅野長矩(あさのながのり)の鬱憤忿怒をうけて吉良を殺害したもので、刀を抜かずに忍んだ吉良に罪はなく、仇討ちには該当しないとする。一方で、主君が彼らにかけた恩義に報いる道は、主君の墓前で人道に外れた殉死をすることでもなく、主君を助けて藩の統治にあたることであるはずで、刃傷事件によって主君も藩も領民もなくなり「天命」が改まった彼等は武士としての職分を喪失した彼らのとるべき道は、妻子を養い親族を守るという人間として生きる道であったにもかかわらず、憎しみで吉良を殺し、採るべき道を取らなかったのは大義に背くものである、というのである。 また、豊臣秀吉による朝鮮出兵も、「武道の正義」に照らせば、明・朝鮮が日本に不義を働いたわけでもないのに、異国を侵し、人を殺め、土地を奪い、自らの利益を図ったことは「無道」であり、「強盗」「盗賊」のすることと変わりがないとする。人々は民家に押し入って物を奪うのは強盗だと指弾し、一方秀吉の行いは「大器量」だとしているが、秀吉は「武道の正義」を弁えず我が国を「盗賊国」に貶めたのだと論じるのである。 このように特異な思想を持った乳井貢の肖像画はいささか異様なものである。中国の聖人のような頭巾と着衣を身にまとう立像で、頬骨が出、眼光鋭く、長いまつげが特徴的で、異相とはこのような顔のことをいうのであろうか。伝えによれば、背は高く、腕力があり、とがった歯を持っていて、固い木の実を平気で噛み砕いたという。ある時、耳に16貫の分銅をかけて歩いたところ、常に変わりがなかったという。 彼の経歴を、ここでは「津軽旧記伝」五(東京大学史料編纂所蔵)によってまとめておく。弘前藩士で、名を建福(のりとみ)(建富とも)という。通称を弥三左衛門、また市郎左衛門と称した。大浦為信(おおうらためのぶ)に仕え、津軽統一に貢献した乳井建清の次男建吉から7代目の子孫にあたる。父乳井儀右衛門建尚は享保年間(1716~1736)に書役、ついで栄翁(5代藩主津軽信寿(つがるのぶひさ))付となった。元文元年(1736)に家督を相続した(知行150石)。寛延2年(1749)には藩主のそば近く仕える近習小姓兼御小納戸となったが、宝暦元年に眼病を長く患い、職を免じられた。 宝暦3年(1751)勘定奉行に挙げられると、藩の金銭出納を勘定方が一括して取り扱って冗費を節減し、さらに藩の用達商人からの証文を残らず火中に投じて借財を踏み倒し、上方廻米を一時停止して貯穀し、米を担保とする米切手を用いて近国と取引し利益を上げるなど、矢継ぎ早に新機軸を打ち出した。さらに、宝暦4年12月には家中からの借知を止め、宝暦5年の大飢饉においては穀物の売買を食い止めるなど、辣腕によって評価を高めた。同年12月、藩政改革推進のため新たに設けられた元司職に就任し、翌年7月、藩主津軽信寧(つがるのぶやす)から「いく年も四季の間絶へぬ貢かな」という発句とともに、貢の名を賜った。ちなみに四季の間とは弘前城本丸御殿の表方における藩主居室のことで、年中弘前城に貢納の絶えぬことを望むという意味とともに、信寧が乳井の手腕を高く評価し、これから幾年も乳井の手腕によって藩財政に余裕が生まれ、自らに親しく仕えることができるよう望んだのである。このように藩主の信頼を勝ち得た乳井は、翌年3月3日には1000石取りの大身家臣となった。宝暦6年9月に乳井が領内を巡察した際には、その威勢が最高潮に達しており、行列は大名の如く、各地での饗応は藩主同様で、外浜(そとがはま)の老女の中には念珠をかけて通行を拝んだ者もあったという。それまでの財政再建や飢饉への対応は、領民からも深い信頼を寄せられていたとみられる。 同年9月15日には領内における貸借を一切無効とし、領外債務を全て藩が肩代わりするという「貸借無差別令」発令とともに、領内の金銭を全て藩庫に収め、商品流通の統制を図るべく、物資の配給通帳である「標符(ひょうふ)」(12月に「諸品通」と改名)の発行を命じ、領内に通用させた。しかし、翌宝暦7年に入ると物資の欠乏と通貨の信用喪失を招き、領内経済を混乱に陥れた。6月29日に標符の通用は停止され、正金銭使用が復活した。さらに前年6月21日から俸禄制となっていた家臣知行が、7月21日に再度地方知行制に転換し、同月21日には貸借無差別令が廃止されるなど、乳井の経済政策は実態経済の現実下で悉く転換を迫られたのである。 宝暦8年3月16日、出張先の上方から呼び戻された乳井は、弘前城下の土手町橋(どてまちばし)(現在の蓬莱橋(ほうらいばし))辺りで詰めかけた人々から悪罵を投げかけられ、投石騒ぎも発生する中、そのまま家老棟方貞隆の屋敷に出頭、御役御免を申し渡された。さらに、7月3日には身帯・居屋敷召し上げ、蟄居を命じられた。 10年に渉った蟄居は、明和5年(1768)、大赦によって解かれ、さらに安永7年(1772)9月朔日、突如として再勤の命が下り、新知(しんち)高100石・役知50石をもって勘定奉行に再任された。しかし、同9年6月3日、再度乳井は失脚し、蟄居を命ぜられ,川原平村(かわらたいむら)(現青森県中津軽郡西目屋村(にしめやむら))において牢居を命じられた。天明4年(1784)4月に再び許され、10月には生涯5人扶持を給されることになった。赦免後は駒越村(こまごしむら)(現弘前市大字駒越)、最晩年は弘前塩分町(しわくまち)(現弘前市塩分(しおわけ)町)に閑居し、詩文俳諧を友とし、傍ら多数の門人に数学を講じて余生を送り、寛政4年4月6日に死去し、城下新寺町の真教寺(しんきょうじ)に葬られた。 弘前藩の中期藩政改革の研究は、瀧本壽史(たきもとひさふみ)氏の研究によって深化した。その瀧本氏が指摘するように、藩政改革の主体であった乳井のもう一つの側面は、その豊かな思想を政治に反映させようとした点にある。彼の実践的な思想の解明が進められることで、その特異な政治との関連性をより追求することが可能になる。その結果、儒教思想の浸透の在り方、経世論の地方伝播と影響なども踏まえた全国的事例検証との対比が可能となり、弘前藩の宝暦改革と幕政・諸藩の改革との共通項、弘前藩の特性の両面を明らかにすることが可能になるだろう。(千葉一大) 【参考文献】 松木侃「乳井貢研究序説」(内田義彦・小林昇編『資本主義の思想構造』岩波書店、1968年) 小島康敬「津軽藩士乳井貢の思想」(長谷川成一編『北奥地域史の研究』名著出版、1988年) 瀧本壽史「乳井貢」(地方史研究協議会編『地方史辞典』弘文堂、1997年) 小島康敬「乳井貢─藩政改革を推進した信念の思想家─」(社団法人農山漁村文化協会企画・発行『全国の伝承 江戸時代人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ〈2〉ふるさとの人と知恵 青森』名著出版、1992年) 小島康敬「津軽藩宝暦改革の主導者乳井貢の思想と実践」(長谷川成一監修、浪川健治・佐々木馨編『北方社会史の視座 歴史・文化・生活』第2巻、清文堂出版、2008年)
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