解題・説明
|
弘前藩の累積借財高が藩の年間収入の2倍近くに達していた18世紀中期、弘前藩は宝暦3年(1753)、儒学者の乳井貢(にゅういみつぎ)を勘定奉行に登用して改革に取りかかった。いわゆる弘前藩宝暦改革である。乳井は諸役所を統括する調方(しらべかた)役所を新設するとともに、同5年には財政の最高責任者である元司職(もとししょく)となって自身に権力を集中させ強力な改革推進体制を構築している。 藩財政再建を第一の課題としたその中心政策は、「米切手(こめきって)」と物資配分帳である「標符(ひょうふ)」の発行による商業・金融統制であり、調方役所の管轄下に運送役(うんそうやく)として組織された藩内の御用達(ごようたし)町人たちがその実務に当たった。宝暦4年、藩は大坂への廻米(かいまい)を中止し、領内で米を売却して代金を直接江戸に送ることとし、藩内の富裕者に年貢米を担保として米金銭を差し出させるための米切手を宝暦5年の3月・4月に発行した。米切手によって領内の貨幣と米穀の独占を図ろうとしたのである。米切手の発行が決まったのは宝暦4年閏2月15日のことである(「弘前藩庁日記(国日記)同日条)。その発行は農作業に入る前であり、米の蔵出しは収穫後に設定されている。この年はその実施に向けた準備に追われ、翌5年の発行となったのである。 ここで紹介されている2枚の米切手はこの時のものである。1枚は『新編弘前市史 通史編2』(485ページ)で紹介されている。但し米切手は表面のみであり、宝暦5年の発行段階では裏面の記載は無い。2001年段階で筆者が確認している宝暦年間の米切手は11枚のみである(弘前市立弘前図書館蔵3枚、弘前市立博物館蔵1枚)。いずれも全て、作成年は宝暦5年の4月と3月。米高は通常の米切手同様1枚で10石。発給者は「調方」役所(「調」の丸黒印あり)、受領者は「御用達中」(御用達町人)。表面に「景寛」、「親□」(□は不明)の丸黒印があるが、「景寛」は釜萢兵左衛門(かまやちへいざえもん)のことであり、当時勘定奉行を務めていた。「親□」も勘定奉行と推定される。11枚とも両者どちらかの黒印が押されている。 さて、宝暦5年、この米切手は御用達から領内の富裕者に金銭供出の代わりに与えられることになっていたのであるが、この政策は、同年の大凶作によって当初の目的を達成することなく、多くは調方・御用達の手元に残ることになった。乳井はこの大凶作に直面するに及んで、これまで以上に領内の金銭・物資及びその流通を全面的に統制下に置く強力な経済統制・金融統制を実施するべく、宝暦6年(1756)9月から標符(通帳(かよいちょう))の発行に踏み切った。しかし、標符発行によって経済の混乱を招いて乳井が失脚。標符も宝暦7年7月1日に廃止され、万事、改革以前に戻ることになり、宝暦5年の米切手が再び活用されることになったのである。裏面に「御運送役」とあるのは宝暦6年6月16日に御用達町人が御運送役と改められていたからである。確認している米切手11枚の内、年月日で最古のものは宝暦7年6月20日、最新は宝暦8年4月9日である。宝暦8年4月9日のものは2枚あり、1枚が『新編弘前市史 通史編2』(484ページ)に紹介されている。運送役のところに3名の人名が記されているが、この段階で運送役が廃止されていたためである。最古のものは、標符が廃止された宝暦7年7月1日よりも前の6月20日となっているが、実際は6月段階で標符の発行は停止されていたものと考えられる。標符発行をはじめとする経済政策の推進者であった足羽(あすわ)次郎三郎が町預かりとなったのが同年6月23日であったことからもうかがえる(「国日記」同日条)。 これまで宝暦改革と言えば「標符」が大きく注目されてきたが、宝暦5年の米切手は、宝暦改革の一環として発行されたものであり、標符の発行・廃止の前後と深く関わっていたのであり、宝暦5年の大凶作をはさんで宝暦改革が大きく第2段階に入ったことを示すものでもあると言えよう。(瀧本壽史) 【参考文献】 瀧本壽史「弘前藩宝暦改革における『標符(通帳)』の形態について」(『弘前大学国史研究』111、2001年) 瀧本壽史「弘前藩宝暦改革で発行された『標符』」(『弘前大学国史研究』114、2003年) 瀧本壽史「弘前藩の宝暦改革」(長谷川成一監修『図説 弘前・黒石・中津軽の歴史』郷土出版社、2006年) 東奥日報社『青森県人名大事典』1969年
|