目録ID
|
mp000056-200010
|
文書名
|
藤田家記 上
|
文書名(カナ)
|
フジタ カキ ジョウ
|
文書名(ローマ字)
|
Hujita kaki jo
|
別名
|
|
別名(カナ)
|
|
別名(ローマ字)
|
|
文書名(欧文)
|
|
文書名に関する注記
|
|
差出・作成者
|
|
差出・作成者(カナ)
|
|
差出・作成者(ローマ字)
|
|
宛所
|
|
宛所(カナ)
|
|
宛所(ローマ字)
|
|
書写者
|
|
書写者(カナ)
|
|
書写者(ローマ字)
|
|
作成年
|
寶暦元年(1751)
|
作成年終
|
享和2年(1802)
|
数量
|
1冊(125丁)
|
形状
|
|
寸法
|
|
寸法(縦)
|
24cm
|
寸法(横)
|
16cm
|
材質
|
|
形態に関する注記
|
|
保存状況
|
|
縮尺
|
|
その他の注記
|
写
|
言語
|
日本語
|
ISBN
|
|
ISSN
|
|
主題
|
|
主題(カナ)
|
|
主題(ローマ字)
|
|
関連する地域・場所
|
|
関連する地域・場所(カナ)
|
|
関連する地域・場所(ローマ字)
|
|
関連する人物・団体
|
|
関連する人物・団体(カナ)
|
|
関連する人物・団体(ローマ字)
|
|
内容年
|
1803~1810
|
内容年終
|
|
内容
|
附「公私覺書(従享和三年至文化七年)」. 原本(藤田氏ノ一連ノ家記)より、中村良之進(弘前の郷土史家、昭和15年没)が抜書した写本
|
内容(カナ)
|
ツケタリ コウシ オボエガキ キョウワ サンネン ヨリ ブンカ シチネン ニ イタル. ゲンポン フジタシ ノ イチレン ノ カキ ヨリ ナカムラ リョウノシン ヒロサキ ノ キョウドシカ ショウワ ジュウゴネン ボツ ガ ヌキガキ シタ シャホン
|
内容(ローマ字)
|
Tsuketari koshi oboegaki kyowa sannen yori bunka shichinen ni itaru. Genpon Hujitashi no ichiren no kaki yori Nakamura Ryonoshin Hirosaki no kyodoshika syowa jugonen botsu ga nukigaki shita syahon
|
解題・説明
|
本書は2冊組の家記であり、表紙外題にそれぞれ「藤田家記 上 二冊揃」「藤田家記 下」とある。表紙にはともに「中村氏秘蔵」の朱角陽印、1丁目にも、ともに「改」「八木橋俳古蔵書」の朱角陽印が捺されている。また「上」末尾に「上下弐冊中村良之進先生直筆の写本也 八木橋武実蔵本」と八木橋氏が記載している。このことから、藤田家の家記を、その原本からかどうかは不明であるが、弘前の郷土史家で陸奥史談会会長も務めた中村良之進(1864~1940)が書き写したものであり、中村氏の蔵書であったものが後に、郷土史家であり資料収集家であった八木橋武実氏の蔵書となったものであることがわかる。 『津軽藩旧記伝類』によれば、この藤田家は、弘前藩4代藩主津軽信政によって初代藤田権左衛門貞愛が貞享2年(1685)4月に千石で召し抱えられて以来の家柄である。藤田家には「家記数十冊」あり、そのうち、貞享2年から寛政までの記述は、藤田家7代権左衛門貞庸の自筆であり、貞庸が8代弘前藩主津軽信明(のぶはる)から9代藩主寧親(やすちか)までの2代にわたってその身近で仕え、機密事項にも関わっていたことから、内容的にも見るべきものが多いととされている(同書「下沢氏抄録」)。中村良之進がここでいう「家記数十冊」の中から選択して直接書き写したものかどうかはわからないが、本「家記 上」は7代藤田権左衛門貞庸の時の記録であり、「家記 下」は8代藤田権三郎貞幹の時の記録であることから、藤田家記の中でも当時の弘前藩の状況を知る上で極めて貴重な記録であることは否定できない。 「家記 上」は、藤田権左衛門貞庸が生まれた宝暦5年(1751)から、没する文化7年(1810)までの記録である。ただし、寛政3年7月から享和2年までは「家記 草案」、享和3年(1802)から文化7年までは「公私覚書」として、大きく3つに区分されている。「家記 草案」「公私覚書」の題が藤田貞庸によるものか、中村良之進によるものかはわからないが、9代藩主寧親が家督を相続したのが寛政3年8月であること、また、権左衛門貞庸が享和2年10月に廃田開発方御用を命ぜられ、享和3年2月に郡奉行となっていることから、改題の時期としてはそれなりの理由が認められる。 「家記 下」は、権左衛門貞庸が没した翌年の文化8年(1811)3月に家督を継いだ権三郎貞幹が生まれた天明3年(1783)から、貞幹が没した文政12年(1829)11月までの記録である(ただし貞幹は同年2月没)。天明3年から文政2年(1819)、文政3年から同7年、文政8年からから文政10年3月までと3つに区分されているが、年代表記のみのくくりであり、題は付されていない。ただし、その後の文政10年4月から最後の文政12年11月迄については「日新 梧桐齋」と改題されている。梧桐齋については権三郎貞幹本人か、あるいはその後継の可能性なども考えられるが不明である。 さて、この家記において最も見るべきは「上」の享和2年(1802)頃迄である。「上」享和3年以降、また「下」においても蝦夷地警備(えぞちけいび)や高直り、廃田復興なども含め、藩政上重要な出来事が記載されているが、筆写されずに省略された箇所が時代が下るにつれて多くなっていく傾向にあり、中村良之進の筆写意欲の変化を感じさせる。記載されている内容への興味関心や史料としての歴史的価値の有無がもたらした変化であると考えられる。 藤田権左衛門貞庸(初め小三郎)は、天明飢饉(てんめいききん)の最中の天明4年、8代藩主信明の近習小姓を仰せ付けられ、飢饉の状況を視察して藩主に報告する役目をにない、藩主の名代として同年9月18日から村々を廻り、その様子をつぶさに見聞している。また多くの遺骨を集めて供養し、卒塔婆(そとば)を立てることも命じられたとされている。この時に権左衛門貞庸が記録し、藩主に報告した内容の一部がこの「家記 上」に記載されていると考えられるのであり、天明飢饉に関わる史料としては、第一級のものであると言える。また、弘前藩寛政改革においても、寛政3年(1791)2月に錠口役郡奉行に任命され、赤石安右衛門(あかいしやすえもん)や菊池寬司(きくちかんじ)などの、いわゆる寛政改革7人衆とともに登用されて改革の推進に当たっていることから、藩士土着(はんしどちゃく)制(在宅(ざいたく)制)など改革の諸政策についても多く記載されている。また、寛政改革の背景となった蝦夷地警備についても詳しい。藩主の側近でもあったことから、藩主の意向や動向についても見るべき記載がある。 「家記 下」は文化年間から主として文政年間(1804~1829)の記録である。貞庸の子貞幹(初め斧三郎、斧弥)は、9代藩主寧親と10代藩主信順に仕え、開発方や国産方などの財政面を多く担当した人物である。文政6年には用人手伝いとなり、財政難打開に努めたもののその心労のため享年47歳で早世したとされる。文政期の弘前藩研究は蓄積が少なく、今後活用が期待される記録であると言える。 なお、本「家記」には、しばしば中村良之進によると考えられる記載事項や語句の注記や、藩庁日記と照合しての朱書での訂正文字が記載されている。中村良之進が本「家記」を後世に伝えようとした意図がうかがえる。(瀧本壽史) 【参考文献】 瀧本壽史「宝暦・天明期津軽藩農村の諸問題」(『弘前大学国史研究』71 1980年) 瀧本壽史「寛政改革と藩士土着政策」(長谷川成一編『津軽藩の基礎的研究』国書刊行会 1984年) 青森県文化財保護協会編『みちのく叢書第3巻 津軽藩旧記伝類』(国書刊行会、1982年) 青森県文化財保護協会編『みちのく叢書第4巻 津軽歴代記類 上』(国書刊行会、1982年) 青森県文化財保護協会編『みちのく叢書第5巻 津軽歴代記類 下』(国書刊行会、1982年) 東奥日報社『青森県人名大事典』1969年
|
解題・説明(英語)
|
-
|
来歴
|
|
来歴(英語)
|
|
所蔵機関
|
弘前図書館
|
原資料の所在地
|
弘前図書館
|
資料番号
|
通史2-152
|
管理記号
|
YK215-82
|
カテゴリ区分
|
文書・記録
|
資料種別
|
古文書
|
資料分類(大分類)
|
八木橋文庫
|
資料分類(中分類)
|
|
資料分類(小分類)
|
|
文化財情報
|
|
manifest.jsonへのURL
|
|
参照データ
|
|
関連ページURL
|
|
関連画像URL
|
|
自治体史掲載
|
藤田家記の信明自筆書付(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第二節)
|
出版物・関連資料
|
|
翻訳元の言語
|
|
権利関係・利用条件
|
|
原資料の利用条件
|
|
権利関係・利用条件に関する注記
|
|
緯度・経度・高度に関する注記
|
|
DOI
|
|
既刊目録名
|
|
デジタル化の経緯に関する注記
|
|